駿府の○○は日本一
静岡市から見た富士山
静岡見て歩きホームページより http://www.asahi-net.or.jp/~kw2y-uesg/index.htm
 前田家は、普請狂といわれた秀吉の大坂城・肥前名護屋城・伏見城・聚楽第・方広寺大仏殿の手伝い普請に携わってきました。それは、豊臣家への忠誠の証であったわけです。
 そして、関が原合戦後、徳川家に服従せざるをえなくなった前田家は、今度は徳川家の築城や町立ての手伝い普請に参加することとなりました。家康が征夷大将軍となった慶長8年(1603)に江戸の市街地普請。慶長11年(1606)には江戸城の石垣普請。また、その間の慶長10年には加賀藩江戸屋敷の創建を行っています。
 ここでは、江戸での手伝い普請に次いで、利長たちが関与することとなった家康の駿府城普請に焦点をあててみたいと思います。
 慶長8年に将軍の座についた徳川家康は、わずか2年後に将軍職を秀忠に譲ると、慶長10年に家康は隠居の身分となって、翌年には駿府を隠居城と定め、翌々年の慶長12年(1607)の2月から築城を始めたのでした。
 駿府は家康が幼年期の12年間、人質生活を送ったところ。家康にとってつらい経験だったとはいえ、駿府は住み慣れた古巣でした。成人後、駿府を手中にした家康は、天正15年(1587)から約2年をかけて駿府城の修築を行いました。が、その後天正18年には、豊臣秀吉の命によって関東に国替えとなり、無念の思いをいだきながら駿府を去りました。そして、天下を我がものとした時、再び古巣駿府に戻ってきたのです。
 家康が隠居の地として、駿府を選んだのには次のような理由がありました。
@ 幼年の頃この駿府に暮していたので、故郷のように懐かしい。子供の頃、見聞きしたことも、大人になってみるとなかなか愉快だ。
A 富士山が高くそびえ、左右に山が連なっているので天然の衝立となり、冬は暖かく老後を過ごすには良い場所である。
B 米が天下一おいしい。
C 西には大井川と安倍川があり、東には箱根の山と富士川があり、要害の地である。
D 江戸幕府に参勤する大名たちが、私に拝謁するのに回り道することなく便利である。また、この駿府は地勢が開かれていて、景色がまことによい。また富士は不死につながり、この地にいれば長生きできそうだ。

 いやー、どんな高説を論じるのかと思ったら、家康さん。結構、庶民的な意見で、楽しくなってしまいます。
 それにしても、静岡の皆さん、御地はまことにすばらしい住み心地のようですね。特に、米が日本一うまいというのは、絶対にいいです。長兵衛も願わくば、静岡に引っ越して長生きがしたい。そんなわけにもいかないか・・・。
 さて、この駿府築城は、諸大名に工事を分担させる天下普請によって進められました。御殿の設計は、小堀遠州。大工棟梁は中井正清の黄金コンビ。これは、後の名古屋城築城と同じ人選です。
 普請は、越前、美濃、尾張、三河、遠江、丹波、備中、近江、伊勢の諸大名に、500石につき3名の割合で役夫を出させて、それぞれ区分を決めて工事をさせたそうです。そして、工事が始まると、普請を分担させる大名の枠も、徐々に広がっていきました。
 関が原合戦の後に、徳川家の臣下となった外様大名には、特に重い負担があったようで、九州の島津氏は、五百石積みの船、150艘に石材・木材を満載して清水湊に入り、安倍川の水害から駿府城を護るための大堤防を築きました。この堤防を今でも「薩摩土手」というそうです。前田家も、もちろん駿府城普請に赴き多大の尽力をしました。
 徳川幕府による江戸城・徳川家伏見城などの天下普請とほぼ同時期に、駿府城の普請が始められたので諸大名にとっては、大変な負担でした。家康も秀吉と同じように、諸大名に天下普請の重い負担を課し、家臣や領民を借り出すことで、彼らの勢力を抑えようとしていたのです。また、天下普請は大名たちの幕府に対する忠誠心を確認する意味でもありました。手伝い普請を拒んだりすれば、お家取り潰しとなってしまいます。大名たちは「とほほ」と思いながらも手伝い普請に従わざるを得なかったのです。
 しかし、大名にとって天下普請への手伝いは必ずしもマイナス効果だけではありませんでした。普請現場に派遣された大工・石工たちは、他藩の大工・石工たちと互いの技術を競い合い、より高度で洗練された技術を習得。その技術を里土産として地元に持ち帰りますので、地方における城郭建設のレベルはグッと向上します。そのような訳で、慶長の築城ラッシュの時代を経て、地方にも数多くの名城が誕生しました。
 天下普請には、結果として中央の築城技術の地方への波及という大きな効果があったというわけです。
 さて、駿府城の普請場にお話を戻しましょう。駿府築城が始まって約130日を経た7月3日には、本丸部分の殿舎等が完成したので家康は引越しをしています。家康の引越しの後の2ヵ月間で、どんどん築城は進められました。このことは、着工から150日にして新城に引越しした利長の高岡城の場合を考えるのにとても参考となる話ですね。未完成の城への城主の引越しは決して特異なことではなかったようです。
 ところが、駿府城は、築城途中の慶長12年の12月に火災にあってことごとくが焼失。明くる年の正月より再度建造が始められています。この時、京・伏見の大工が皆駿府に下ったといいますから、徳川家康の権力の増大ぶりが伺い知れるというものです。 
 築城普請は過酷を極め、体力消耗から人夫に鳥目患者が続出するほどの突貫工事で進められました。城内の建物は着々と完成し、そして慶長13年(1608)8月ごろには、天守閣も完成したようです。
 今、開催中の名古屋博では、名古屋城の金の巨大しゃちほこが地上に降ろされ、観光目玉のひとつとなっていますが、当時の駿府城の屋根にも金ぴかのしゃちほこがつけられていたようです。そして、軒瓦は金箔瓦が用いられ、富士山を背景に壮麗な姿で建っていたそうです。
 駿府城下町の都市計画は、風水の思想「四神相応」を原理としましました。
 四神相応とは、風水で最高の吉相と言われる理想の地相です。風水では東西南北にはそれぞれ方位の守護神がいると考えられておりまして、北=玄武(亀と蛇が合体したガメラのような架空の動物)、東=青龍、南=朱雀、西=白虎と配されていました。また方角の守護神が姿を変えた地形として、北=山や木々、東=清流、南=平野や湖沼、西=街道が存在することが理想にされたわけです。駿府はこの理想の条件を満たす選ばれた土地でした。
 「四神相応」の思想は、この時代の城下町建築の常道でした。近世初頭に開かれた城下町をルーツとする町の多くでは、今でも「わが町は、四神相応の吉相の地である」と自慢しています。そのような町々が近年続々と開町400年、建都400年を迎えているわけです。わが町高岡もまた、その例に漏れません。「高岡は、四神相応の理想の地であり、おまけに高き岡に鳳凰が鳴いている縁起のよい土地だ。」と言っています。
 さて、駿府城と高岡城は、1、2年のずれはあるものの、ほぼ同時期に普請が進められた城といえます。また、駿府は徳川家康の隠居城として、高岡城は前田利長の隠居城として、奇しくも同じ目的で建てられたのです。高岡城と駿府城とには、「四神相応」のほかにも何らかの共通項があるのではないでしょうか。駿府城と高岡城、駿府城下町と高岡城下町、特産品、祭りや信仰や民俗・・・・様々な比較から、面白い類似性や相違点が見えてきそうです。
 静岡市の皆さん、一度高岡にお越しください。高岡の中に駿府があり、駿府の中に高岡があるかもしれません。お待ちしていますよ。
 長兵衛も、静岡の米と富山の米と、どっちがうまいか食べ比べにお邪魔したいものだと思っています。 

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