穴太衆、人生いろいろ
穴太衆と呼ばれる石工集団のことは、前回の古城万華鏡Uでもお話しました。加賀藩は、近江坂本の穴太衆の流れをくむ優秀な石工職人たちを抱えており、加賀藩領だけでなく、各地の天下普請に関与して活躍していました。その子孫の方が、今も金沢市・小松市に在住しておられ、系図や家伝書を大切に伝えておられるのです。このような私的な資料からも歴史は見えてきますので紹介しましょう。
加賀の穴太衆の祖とは、源太左衛門という人でした。
現在の大阪城は、徳川家によって大修築されており、
秀吉時代の遺構は皆無に等しいという
穴太源太左衛門さんは、近江穴太の出で、織田信長に仕えていました。きっと、源太左衛門さんは安土城の石垣づくりにも関ったのでしょうね。天正10年(1583)に信長が本能寺に倒れた後は、混乱の中、織田家を離れて前田利長が領主をしていた越前府中に移住し、合力金をもらって利長に召抱えられます。そして、利長に従って大坂へ行き、秀吉の大坂城普請の御用を勤めました。しかし、体調を崩して府中に帰り、文禄4年(1595)に病死し、正覚寺というお寺に葬られました。
 越前府中3万3千石は、もと前田利家の所領でしたが、利家が能登に転封となったので、天正9年(1581)、織田信長により嫡男前田利長に与えられたのです。この年利長は20歳で信長の娘永姫と結婚したばかり。本能寺の変はその翌年の出来事です。穴太源太左衛門さんが利長のもとに身を寄せたのは、信長という大きな指導者を失い、世の中が動揺していた時のことでした。
この源太左衛門さんに例を見るように、信長の抱えていた敏腕の石工集団や大工集団が、前田家の傘下に入り、高度な技術を加賀藩に伝えたと考えられています。
 源太左衛門さんの長男は、源介といいました。源介は、利家・利長親子に仕えて府中から金沢へと引越し、100俵を給せられて金沢城の石垣普請の御用を勤めました。
 また、源太左衛門さんには、ほかに奥志摩・奥泉という息子がありまして、次男奥志摩のほうは、源太左衛門さんとともに大坂に上り、大坂城や淀城の築城普請に携わりました。ところが、次男坊の奥志摩は、その後「内裏の楽人」なんていう東儀秀樹さんみたいな職に転職し、ついには行方がわからなくなったというから人生いろいろです。それにしても石工から音楽家への転身とは驚きですね。
能登七尾城の石垣 最近は、前田家によって築かれたとの見方が有力
会津若松城 天守台石垣(城田ジョウさんの撮影
http://shiroato.hp.infoseek.co.jp/ )
三男坊の奥泉のほうは、兄源介とともに利長に奉公し、後に利長の弟で能登領主であった前田利政に奉公したそうです。奥泉は、七尾城の石垣普請にも関与した可能性がありそうですね。
この奥泉は、腕がよかったとみえ蒲生氏郷の所望によって奥州会津に行き、会津若松城の石垣普請を勤めました。七尾領主であった利政の妻せきは蒲生氏郷の娘です。蒲生氏郷は利政の舅にあたりますから、蒲生氏郷の所望となれば、前田家としても聞かないわけにいかないでしょう。
この三男坊奥泉は、よほど会津が気に入ったのか、そのまま会津に留まって加賀には帰らなかったそうです。石の上で踊る会津の遊女と恋仲にでもなったのか。これは、前々回を読んでないとわからない話。三男坊もまた、人生いろいろだったようですね。
古城万華鏡Uでは、蒲生氏郷のことをお話しましたが、加賀と会津にはこのような石工職人の移動もあったのです。加賀・会津間の職人の移動、これはとても興味深い問題です。 石工のほかにも、職人たちの移動があったのではないでしょうか。例えば、加賀・越中・能登と会津には、ろうそく・木工・漆器・仏壇・焼き物などの特産品に少なからず共通点がみられ、かつて技術交流が予想されるそうです。
また、話が少しそれるようですが、近世末期の加賀の海商銭屋五兵衛は、能登塩を会津に廻送し、会津蝋燭を加賀藩で売りさばき大変な利潤を得たそうです。能登塩の産地を抱える加賀藩と海のない会津藩との塩交易は、蒲生氏郷や前田利長の時代にすでにあったのかもしれませんね。日本海から、阿賀野川、中津湊そして陸路と、頻繁に交易が行われていたものと予想します。
 以上、加賀藩のお抱え石工穴太家の家伝から、加賀藩の石工が加賀藩領内のみならず、大坂城・淀城・伏見城の築城普請に関り、また、なんと会津若松城の普請にも関っていたことが分かりました。
また、前田利長が、富山に隠居したときに眷属した家臣団の名簿「慶長十年富山侍帳」の中に、「穴太又助」という人の名があります。この又助も穴太源太左衛門と同様に近江坂本出身の穴太衆でありましょう。富山城・高岡城の石垣も、穴太又助たち穴太衆と呼ばれる職人集団によって築かれたものと考えられます。
古城万華鏡Tで紹介した、加賀藩のお抱え大工松井家の家伝では、「初代松井角右衛門は、前田利長の命を請け、越中守山城の普請に従事したのが始まりであり、1593年には伏見城普請のため京に上り、また、このころから兵火により焼失した井波町の瑞泉寺再建に携った」とありました。このように、プライベートな史料の中にも興味深い史実が隠されているようですね。
 では、金沢のお城の話はこの辺で、今度はがらりと気分を変えて、徳川家康の隠居城駿府城のお話に移ります。駿府は、いまの静岡市。市内のどこからでも霊峰富士山を見ることができると言う、すばらしい景観を持つ町です。サッカーとちびまる子ちゃんでも有名ですね。  

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