金沢城の統一デザイン
新発見の松井建設鰹椛三階櫓図と従来より知られいてた
三階御櫓図(石川県立図書館蔵金沢城調査研究パンフレットより)
 漆喰の白壁になまこ塀、曲線の美しい破風屋根、白銀の鉛瓦、そして建物の隅の四本柱を黒い鉄板張りにする意匠は、金沢城の建造物に共通してみられる特徴です。金沢城の建物は、度重なる火災によって長年月の間に何度も立替えられてきましたが、この意匠は金沢城の統一デザインとして連綿と踏襲してきたものだといいます。
 金沢城天守閣は、慶長7年の焼失の後再建されることはなく、三層の櫓がその代わりをするようになりました。この三階御櫓は欄干のついた荘厳な造りであったと古文献は伝えています。
 近年のこの三御階櫓に関する資料が相次いで発見され話題を呼んでいます。
 天守閣焼失後の本丸に建築された三階櫓は、慶長8年(1603)から始まった金沢城本丸普請によって創建されたと考えられており、宝暦9年(1759)の大火で焼失するまでの約150年間にわたり天守閣に代わってその役割を果たしてきました。本丸に高くそびえる三階御櫓は、城下町金沢のランドマークだったのです。
金沢城菱櫓と五十間長屋
 その三階櫓の設計図が近年新たに続けて2枚も発見されました。設計図のうち1枚は金沢市内で発見されたもの。北国新聞社の記事でこの発見についての報道があったところ、その記事を見た松井建設且送ソ室から北国新聞社に「同様の資料あり」と連絡が入りました。松井建設鰍ヘ、古城万華鏡Tでもお話しましたが、前田利長が、越中守山城を築いた時からの加賀藩のお抱え大工で、越中井波を本拠地として活躍した大工棟梁松井家をルーツとします。
 この2枚の設計図は、三階櫓を建設した時に、異なった側面から描かれた2枚1組であると予想されています。
 これまでに知られていた三階櫓の絵図から、そのおおよその外観は分かっていたものの、建物の大きさについては推測の域をでませんでした。ところが今回発見の設計図には、松井建設所蔵の絵図のほうに「20分の1」と表記があったため、20分の1の縮尺図であることが分かり、三階櫓の実際の大きさが判明したのです。また、内部構造についても詳しく分かりました。
 それによると、外見は三層ですが内部は二階部分を2つ重ねとした4階構造で、その高さは土台下から屋根最上まで21メートル。現在復元された菱櫓は、17メートルと言いますから、それをさらに4メートル上回る高層建築だったのです。本丸に建てられ天守閣の代わりをしたという三階櫓の威風堂々とした姿を知ることができました。
金沢城菱櫓と石川門櫓 
ともに鉛瓦・白の漆喰になまこ壁・黒い隅柱の意匠
 三階櫓が、慶長7年に天守閣焼失の後すぐさま創建されたとすれば、当時の加賀藩主であった利長は、中心となってこの三階櫓の監修に携わったと考えられます。
 三階御櫓之図に見るように、三階櫓はなまこ壁や破風屋根など金沢城の統一デザインと同様の要素を持っています。そして、全体として塔のように縦にスラリとのびた直線的シルエット。これは、慶長年間に創建された城郭建築の中では、大変に斬新で全国的にも類例を見ないデザインであったと言わねばなりません。高岡城の建物にもこの三階櫓の構造や意匠は影響を与えていたのでしょうか。興味深いですね。

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