天守閣落雷
金沢城本丸跡
 金沢城の天守閣については、以前にもお話しましたが、いつ頃創建されたのか、またどのような形の建物であったのかは定かではありません。
 近年の研究では、石川県立図書館の瀬戸薫さんが、南部藩の家老北信愛(きたのぶちか)が金沢を訪れ、利家の案内で金沢城天守閣に招かれたことが書かれた古文書「北松斎手控(きたしょうさいてびかえ)」を紹介され注目を集めました。それによると北信愛が金沢の利家のもとを訪問したのは、天正15年(1587)4月。
 傍で奥方のまつさんが、
 「ようこらさった、ほぅ、入いるまっし。(ようこそこられた、さぁ、あがって。)」
 と金沢弁で言ったか、
 「いりゃあせーぇ、ちゃっと、いりゃあー。(いらっしゃい、はやく、はいって。)」
 と尾張弁で言ったか知らないけど、利家は北信愛を天守閣に案内しました。その頃すでに金沢城天守閣は存在したということになります。
 さらに、瀬戸説を補強する形で金沢学院大学の見瀬和雄先生は、前田利家が敦賀商人高島屋伝右衛門宛に送った書状に「天守」の語があることについて論及。
 書状の内容は、利家が「高島屋デパートの先祖伝右衛門よ、いつも世話になる。調子はどうだ。去年買っておいた黒鉄を指定日どおりに送ってくれ。天守閣を建てるのに必要だ。頼んだぞ。」といったようなもの。
 この利家書状の年代を見瀬先生は、天正14年6月7日とされ、「金沢城天守閣は、天正14年の後半か15年の春までに建造されたものと考えるのである。時あたかも、大坂城天守閣が建造された時期である。」と述べておられます。
 つまり、金沢城の天守閣は、文禄元年(1592)の頃から進められた金沢城の大修築以前にすでに創建されていたのです。
瀬戸薫「北信愛覚書について―天正15年の金沢城―」加能史料研究12号・2000年
見瀬和雄『利家利・利長・利常 前田三代の人と政治』金沢城の創建 北国新聞社

本丸への入り口であった鉄門跡
 この金沢城天守閣が、落雷を受けて焼失したのは慶長7年(1602)、前田利長が、金沢城城主となって、3年目の事です。
 突然の落雷は、10月の晦日宇賀祭りの宵であったそうです。宇賀祭りとは、稲荷社のお祭りです。稲荷社の神の使いは狐。この落雷、もしや狐の祟りでしょうか。
 その夜はみぞれ交じりの暴風が吹き荒れ、雷が轟く悪天候でした。
 金沢城に落ちた雷は、天守閣を直撃。夜闇の中、天空から天守閣に一本の太い火の柱が立ったように見えたと伝えられています。折からの暴風にあおられて火は勢いづき、台所へと燃え移り、さらに利長が居住していた本丸の新邸全体が瞬く間に炎に包まれました。 
 その上、天守閣近くに塩硝や弾薬の貯蔵庫があり、火がここに燃え移ったのです。塩硝や弾薬は、大音響とともに爆発。建物全体が一瞬にして吹き飛び、多数の死傷者がでる大惨事となったのです。中には、爆風で太刀を手にしたまま金沢城外の西方寺の屋根にまで吹き飛ばされて亡くなった武士もあったといいますから、その爆発の凄まじさは伝わってきます。
 また、その有様は「百千の雷の如くに鳴り渡り、火薬の勢いにはねつけせれて死するものおびただし。」「大地震の如く、大山崩れ隕るが如くに響いて、方々へはねつけられ、弾かれて死にたる者多し」と伝えられる惨澹たるものでした。この爆発で利長は、命に別状はなかったものの、ひたいに焼けた建物の破片の直撃を受け痛手を負いました。
 いやー、一命はとりとめたものの、利長公、大変恐ろしい目にあわれたものです。先の太田但馬事件の半年後に起きたこの大惨事。利長の動揺は察するに余りあります。
 それにしても、稲荷社の祭りの日に起きたなんて。狐は太田但馬事件との共通のキーワードですね。この時代、狐を神の使いと信じる稲荷信仰や憑き物信仰が大流行し、老若男女、身分の貴賎を問わず、皆お稲荷さんに心奪われていたのです。その代表が豊臣家で、伏見稲荷を信仰し、厚く保護を加えました。
 前田利長は、高岡城築城の際、城内に稲荷社を建てました。城内に稲荷社を祀る例は珍しいそうです。利長もまた熱心な稲荷社の信奉者のひとりだったのです。
天正17年(1589)に豊臣秀吉が寄進したと伝えられる伏見稲荷の楼門

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