利長、愛のサスペンス
金沢城 鶴の丸広場
 前田利長は、戦国大名には珍しく、生涯妻は永姫ひとりであったというのが通説です。しかし、高岡の中川町には、なんと利長が美女と逢瀬を重ねたという寺があります。昔は、寺院も多目的機能だったようですね。
 それから、高岡には利長の実子満姫があったことが、古来より伝えられていましたが、近年高岡市の本陽寺(高岡大和パーキング出口のところの寺)で満姫の坐像と、その享年を記した書き上げが見つかり話題を呼びました。発見された坐像には「蓮成院殿妙侃(みょうかん)大姉 慶長十六年二月二十一日」と、満姫の法名と没年月日が書かれ、書き上げには、「羽柴肥前守息女七歳 御俗名御石(万の誤りか)様」とあったのです。つまり、満姫が数え年7歳で亡くなったとすると、姫は慶長10年(1605)の生まれ。利長が44歳で利常に家督を譲り、隠居した年に生まれた子というわけです。利長にとっては溺愛の姫だったでしょうね。その子が幼年にして亡くなった。利長の落胆は深かったと思います。
 満姫の母は、二塚村の大坪家の娘で大変に美人だったそうです。一説には、鷹狩の際に二塚村を訪れた利長が見初めたそうです。この時代、鷹狩もまた多目的機能でありまして、鷹狩と称して軍事演習をする、また領国の視察をする、そして満姫の母のような優れた人材を発掘する(ナンパする?)機会でもあったのです。
 ですから、よいのか悪いのかコメントは控えますが、利長が永姫ひとりを妻としたというのではなく、何人かの愛妾がおられたのです。
 金沢城にも利長のおいまという名の愛妾の話が残っています。それが、心寒くなるような恐ろしい話なのです。まぁ、聞いてください。
 利長の側近の中に、太田但馬守長知という家臣がいました。彼は、剣の達人にして武勇にたけ、浅井畷の戦いで軍功を立てて2万石を食む、利長の臣下では筆頭の高禄者でした。おまけに、長身にして、容姿端麗と何拍子もそろった人でしたので、太田但馬が登城するや、金沢城の奥女中たちは、にわかにざわめき立つほどで、彼に心を寄せる女も多かったのです。今でいうなら、ヨン様のようなタイプといえるでしょうか。加賀藩随一の花形スターだったわけです。
 そこへ、金沢城で利長の溺愛を一身に集めていたおいまという愛妾が、なんとこの太田但馬と不倫の仲であるといううわさが立ち始めます。うわさは、太田但馬の昇進振りをねたむ武士たち、利長のおいまへの愛情をねたむ奥女中たちによって、たちまちのうちに広がり、そのうわさは利長の耳にも入りました。利長としては、面白いわけがありません。
 ある夜、利長がおいまの部屋に行こうとしたところ、前を歩く一人の男の影が。その影は、あの太田但馬。その影はすっとおいまの部屋へと入っていきました。これを見た利長は怒りに打ち震え、「うわさは、本当であったか」と、すぐさまおいまの部屋に乗り込みます。ところが、部屋にはおいまただひとりが静かに座していました。
 「おいま、今ここへ太田但馬が来たであろう。」
 「いいえ、誰も。」
 「おのれ、おいま、隠す気か。」
 「恐れながら、殿の見誤りにございます。」
 利長は、夜警のものたちを呼び集め屋敷中を探させましたが、誰の姿も見つけることはできませんでした。
鶴の丸近くにある鶴の丸倉庫は幕末の混乱に
備えて、藩が新たに建てた武器庫らしい
極楽橋は金沢御堂の時代からあった
橋だという
しかし、利長の疑念は晴れることなく、太田但馬の成敗を決意します。そして、成敗を横山大膳に申しつけました。横山大膳は、徳川家康から利長逆心の疑いをかけられたとき、家康のもとに赴いて利長に逆心なきことを証明した重臣。
 横山大膳は、金沢城鶴の丸にあった利長の別邸に太田但馬を呼び出しました。
 「太田殿、覚悟されよ。藩主利長殿の御意によりお命頂戴仕る。」
 間を入れず振り下ろされた横山の太刀をとっさによけると同時に、太田は刀をひらりとぬいて横山の胸元を突きたてました。一命危うしと思われた横山でしたが、懐中に忍ばせていた鏡に剣先が当たり救われました。そこへ、襖の後ろから横山を助けようと勝尾半左衛門というものが踊りでて太田に激しく切りつけましたが、太田は勝尾の刀を反し、勝尾の肩に一振りを加えます。その間隙をついて横山がさっと切り込み太田を倒したのです。
 鶴の丸の利長屋敷を舞台に繰り広げられた死闘。成敗された太田但馬。
 太田但馬を殺害しても利長の怨念はおさまらず、太田但馬の首を極楽橋のそばにさらしました。
 「これが昨日まで加賀藩筆頭の家臣と威勢を振るった人の姿であろうか。」
 金沢城に参内する人々は、藩主の残酷な仕打ちに震撼しました。
 そして、おいまとその女中たち数名も、見せしめに眼をくりぬかれて処刑されました。
 この太田但馬事件は、当時のビックニュースであったとみえ、広く他藩にも伝わったようです。
 あーぁ、目の奥が痛くなるような話。なんという愛憎劇。
 いやー、驚きました。サスペンス・ドラマです、これは。それにしても、横山の懐中に鏡とは出来すぎた話。この時代、武士が鏡を携帯することがあったのだろうか。
 前田利長が、金沢城内でこのような血なまぐさい事件を引き起こしたなんて、高岡の私たちには驚きというしかありません。利長は、高岡においては理想の殿様なのですから。こんな話聞きたくなかったような気もするなぁ。
 この太田但馬成敗の真の理由については不明です。金沢城では、「太田但馬は、以前に親子の狐のうち子どもの狐を殺した。母キツネが太田但馬に化けておいまの部屋に入るところをわざと利長殿に見せた。このような形で子を奪われた恨みを晴らしたのであろう。」とまことしやかに語られたとか。
 狐ねぇ・・・・。
 太田但馬は、自らが城代を任ぜられていた大聖寺城を拠点に、加賀藩内で一大派閥を形成していたようです。生来の美貌に加え剣の達人とスター性のある人物ですので、奥女中の女性票も多数つけていた? そして、横山大膳・高山右近らの派閥と反目し合っていたのです。このまま野放しにしていては、家中が分裂し加賀藩は内部から崩壊してしまう。おそらく、過分の権力を振るうようになっていた太田但馬を利長は成敗せざるを得なかったのでしょう。
 先の太田但馬とおいまの不倫談や、鶴の丸屋敷でのチャンバラも真偽のほどは分かったものではなく、太田但馬の謎の成敗事件をめぐって、うわさがうわさを呼び、後日に創作されたドラマなのかもしれません。
 しかし、如何なる理由にせよ利長が自らの側近に対して、成敗という苛酷な処罰を下したことは事実。そこから、関が原合戦以降の加賀藩内部の分裂や混乱ぶりが垣間見えてきます。そして、この頃、前田利長の精神状態は尋常ではなかったのではないでしょうか。
 この太田但馬事件は 前田利長が藩主となって3年目の慶長7(1602)年5月のことと伝えられています。
 愛のサスペンス劇場「金沢城鶴の丸殺人事件」――― 目頭が熱くなるというよりも、目の奥が痛くなります。

Copyright 2005 YAMAGEN-JOUZOU co.,ltd. All rights reserved.