利長、へそを曲げる?
 「利長が指揮をとる高石垣普請は、なかなかうまく積む事が出来ず、石垣は2度にもわたって崩壊し多くの犠牲者がでた。利長は、工事の前途を案じ悩んでいた。上方にあった父利家はそれを聞くに及び、非常に心配して家臣の篠原出羽守一孝に『多くの費用と多数の人命を失ったことは遺憾至極、しかしなんとしても金沢城の高石垣は完成させなければならぬ。しかと頼んだぞ、出羽(篠原)。』と篠原一孝に石垣の施工方法の詳細を指示した。『では、仰せの通りに』と国元に下った篠原は、意欲に満ち満ちて石垣普請の采配を取った。ところが、これは利長にとって面白くない一件あったようで、『出羽よ、父上が指示された通りにやるがよい。』と、越中守山城に帰ってしまった。篠原は八分通りまで石垣を築いたところで、少し段を設けて高石垣を完成させた。利長はこの工法が気にくわず、ことのほか腹をたて『途中に段のある石垣にするのなら、誰も苦労はしない。我は段を作らず、すっきり上まで積み上げたかったのだ。その方がずっと攻防性に優れ、見た目もあっぱれではないか。しかし、出来栄えはまずまず上々じゃ』と言った。」という話。
ほぼ垂直に積み上げられた金沢城石垣
 確かに、篠原のお手柄のせいで、利長の面目は丸潰れですね。父利家の命令を充分に果たせず、挫折感は大きかったでしょう。しかし、さっさと守山城に引きあげた挙句、篠原出羽守たちが苦心の末、完成させた石垣を見ていやみをチクリとは、ちょっといやな性格ではないですか、利長殿。いくら御曹司といってもこういうのは嫌われますって。
しかし、この話には裏がありそうです。けっして、利長の無能ぶりやスカッとしない性格を伝える逸話ではない はず。  
肥前名護屋城跡から玄界灘を望む 
撮影:岡 泰行 (お城めぐりFAN)
高岡徹さんの「文禄・慶長の役と北陸大名―
肥前名護屋城と熊川倭城を中心に」より
 文禄・慶長年間には、日本の城郭石垣にとってとても画期的な出来事があったのです。それは、文禄・慶長の役といわれる2度の朝鮮出兵です。この朝鮮出兵の際に築かれた肥前名護屋城や、そして朝鮮半島での倭城の築城経験を通して、日本の石垣技術の水準は飛躍的に高まったといわれているのです。
 秀吉は、朝鮮出兵の本営として名護屋城を築城し、120にも及ぶ諸大名を結集させしました。名護屋城は、加藤清正・黒田長政らを普請奉行とし、諸大名を総動員してわずか5ヶ月で完成したそうです。五層七重の天守の建つ本丸を中心に二の丸・三の丸のほか多数の曲輪を持つ本格的な城郭で、総面積17万平方メートル。当時では大阪城につぐ巨城であったといわれています。
 この名護屋城が完成した直後の文禄元年(1592)4月から、秀吉最大の愚策といわれる朝鮮半島への進行が始まりました。半島に進んだ加藤清正・毛利輝元・小早川秀秋・黒田長政・小西行長・宇喜多秀家らは、そこで砦を築きました。これが倭城です。倭城の中でも最大規模の西生浦城は、加藤清正による築城で、本丸に天守閣を持つ本格的城郭でした。倭城の石垣の積み方は、国内の城の石積みにそっくりだそうです。  
 倭城は、秀吉の死去を契機に日本軍が撤退したことでその歴史を閉じます。
 長らく忘れ去られていた倭城でしたが、近年、歴史遺産として倭城が見直され、研究者の関心が向けられるようになりました。曲輪や石垣に修改築が加えられることなく、ずっと手付かずのままだった倭城は、まるでタイムカプセルのように文禄・慶長の時代の石垣技法の姿を留める貴重な歴史遺産であり、倭城から逆に国内の城の石垣の編年を追う事ができるそうです。
 この名護屋城と倭城普請を通して、諸大名のかかえる石工たちは知恵を結集し、或いは古来から九州地方に培われた石工技術を学び取り、或いは外来の石工技術を取り入れながら、攻防性に優れた城郭を迅速かつ効率的に築く工夫を様々に凝らしました。日本軍の海外出兵という愚かな特殊情勢下での、火事場の馬鹿力的経験を通して、皮肉にも城郭建築の技術は画期的に躍進し、数々の新技法が誕生しました。戦争は発明を生むといいますが、まさに好例です。石垣普請の名人にして、石垣城の異名を持つ熊本城の創建者である加藤清正は、この朝鮮出兵の経験からその石垣技術を高めた人物の代表格です。
 肥前名護屋・大坂・京と秀吉に随行し、補佐役として陣頭指揮にあたっていた前田利家には、名護屋城や倭城の普請場で培われた、最新にして高度な石垣技術を知るチャンスがあったはずです。それを、金沢城の高石垣普請に活用すべく、利家の片腕として働いていた篠原一孝に石垣施工の知恵を託したのでは。
 肥前名護屋の陣屋で、徳川家の家臣と前田家の家臣とが、井戸の水取りを巡って小競り合いをおこし、両者にらみ合いとなったことは有名ですが、『加賀藩史料』は「前田利家家臣篠原一孝の従僕、肥前名護屋城において徳川家康の家奴と汲み水の事により争闘す。」
とあり、徳川家中と井戸水の争奪をやった張本人は、篠原一孝の部下であったというのですから、無論、篠原出羽自身も名護屋の陣中に滞在したことに疑いはありません。
 彼は、名護屋城や倭城が築かれた時に誕生した最新の石垣技術を身を持って修得していたことでしょう。この肥前名護屋での経験が大きく影響しているのだと思いますが、篠原は加賀藩の築城を牽引するキーマンのひとりであり、高山右近と並び称せられる築城の名人でした。
 この高石垣普請の話のほかにも、金沢城河北門の石垣普請の際、高山右近が築いた石垣を「城の門に小さな石は見苦しい」として大石に変更させた、というエピソードも残しています。右近と出羽は、石垣普請のよきライバルであったようですね。
延宝年間 森田本金沢町図 
石川県立図書館ホームページより転写
真ん中の空白は金沢城、城を二重の惣構(黒く描かれている)が囲み防御していた。
 また、慶長4年(1599)、関が原合戦を目前にして築き始められた金沢城を取り巻く内惣構(内堀)は、高山右近の監修であったと伝えられていますが、慶長15年(1610)から工事が始まった外惣構(外堀)のほうは、篠原出羽の監修であったとされています。上の絵図に見るように、右近と出羽との指導によって作り上げられた内惣構と外惣構とは、二重に金沢城を取り巻いて城を守っていました。
 また、先ほどの金沢城高石垣の話しでは、利長と篠原出羽との関係が険悪ムードで語られていましたが、慶長14年(1609)8月8日、高岡築城の際に利長が側近に宛てた書状では、「そこもと本丸の野普請では、山城・出羽などへ相談候て、もっともに候。(その方たち、本丸普請については、横山長知や篠原一孝とよく相談して行うように)」と指示しています。篠原出羽は利長が、特別の信頼を寄せる家臣でもあったのです。
 わが町高岡の殿様のために言わせてもらうと、利長が守山城に帰った理由は、ふてくされたりヘソを曲げたりして帰ったというよりも、おそらく、金沢城修築と同時に守山城や守山城下町の修築を進めるためだったのではないでしょうか。また、利長が金沢に滞在している間には、守山城で家臣たちの小競り合いがあったようで、利長としては越中の家臣たちの意思統一も重要な課題であったのでしょう。
 ちなみに、現在の金沢市出羽町は篠原出羽守一孝の屋敷があった場所です。兼六園の隣、石川県立歴史博物館のあるところの辺りですね。
 篠原一孝は、16歳のときから利家に仕えた子飼の家臣で、有能だったので利家の信頼も厚く、利家はその遺書の中で、「大坂で秀頼公に謀反があった際には、次男利政が兵を率いて大坂に上り、出羽は金沢城の城代をつとめ本城を守るように」と命じたほどの重臣でした。また、利家が亡くなったときには、その亡骸を大坂から金沢に送り届けるという重大な任を果たしてもいます。
 金沢城の修築は、文禄・慶長の二度にわたる秀吉の朝鮮出兵や名護屋城・倭城の築城と平行して着々と進められ、整った曲輪、巨大な濠、高い石垣を備えた城郭へと変遷していきました。戸室山からの石の切り出しも、利長の金沢城修築の時から始められたそうです。そして、城の修築と同時に、金沢の町も寺内町から、加賀藩の本城を有する城下町へと脱皮していったのです。
 太閤記によると、前田家では朝鮮出兵に8000人の兵を動員した。肥前名護屋での前田家陣屋は大手口の正面に置かれており、諸大名の陣屋の中でも最大級の規模である。前田家陣屋跡は、今も「筑前山」と呼ばれているそうだ。文禄2年(1593)に明国の講話団が名護屋を訪れた際、前田家陣屋で彼らを接待した。優雅な庭と茶室も備えられていたという。近年の調査では、庭園と思われる遺構が発掘された
肥前名護屋城 前田家陣屋跡  

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