父の命令
金沢城石垣の刻印 卍
金沢城で最も古い石垣は
文禄時代のものだという
尾坂門跡に残る鏡石は、
かつての大手門の名残
 さて、ご存知のように金沢城の前身は加賀一向一揆の拠点、金沢御堂でした。天正8年(1580)織田信長の命を受け一向一揆鎮圧に向った柴田勝家の家臣佐久間盛政によって、金沢御堂は陥落。盛政がこの御山御坊に入城しました。しかし、まもなく本能寺の変に織田信長が倒れ、賎ケ岳の戦いに柴田勝家、佐久間盛政が敗北すると加賀の支配は一変。天正11年(1583)、秀吉が加賀に進み金沢城を手中に収めて、これを前田利家に与えました。能登領主であった前田利家が金沢城に入った時、その城はまだ金沢御堂の寺の建物が残る、土塁と木の柵だけの貧弱な砦であり、前田利家は御堂の跡で寝食していたと伝えられています。
 入城5年後の天正16年(1588)、豊臣秀吉のバテレン追放令によって領地を追われ放浪の身となっていたキリシタン大名の高山右近が、客将として前田家に身を寄せました。前田利家は右近に命じて城の修築を始めさせたそうです。右近は、大手を尾坂口に改めるなどの改築に着手しました。
 さらに文禄元年(1592)、秀吉の朝鮮出兵への従軍を控えた利家は、長男の利長を金沢にとどめ、金沢城の大修築を命じました。金沢城の修築は、ここから本格的に始まったといえます。この時、利家は56歳。利長は31歳になっていました。
 まず、小立野台地と城とを切り離す堀の、幅を広げる大掘削工事が行われました。この堀は、とても広かったので百間堀と呼ばれました。現在、石川門から金沢城に入る時、下を見ると幹線道路を車がびゅんびゅん走っていますが、あの道路から隣接する緑地公園までが百間堀の跡です。この堀は利長の時代には空堀でしたが、後に寛永9年(1632)、辰巳用水が通じると、お堀は満々と水をたたえる水壕となりました。
現在の百間堀跡 幹線道路が走っている。緑地公園もお堀の跡。
金沢城にはたくさんの石垣が残されている。石垣の建築年代と形式は様々だ。
まさに、石垣博物館。
金沢城倶楽部ホームページより
慶長期の金沢城を加賀藩の兵学者・有沢永貞が元禄5年(1692)に記した『諸国居城之図集』164枚のなかの1枚。金沢市立玉川図書館蔵
 そして、堀に続いて高石垣の施工が行われました。
 高石垣は、織田信長の安土城にすでに見られますが、豊臣秀吉の大坂城・伏見城の築城を通して定着し、文禄・慶長の時代には近畿地方を中心に、地方の諸大名たちの城郭にも取り入れられるようになりました。築城石垣の発達の遅かった北陸地方にあって、金沢城の高石垣は、先駆的といえるでしょう。この高石垣について、前田利長の次のような逸話が残っています。
石川門枡形 連日たんさんの観光客が門をくぐる
石川門は慶長年間の創建で、後に幾度も修築を重ねた

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