倶利伽羅山の秀雅
倶利伽羅不動寺から宝達山の方向を見る
 先日倶利伽羅不動寺に行って来ました。ここからの眺めはすばらしいですよ。この日は、うっすらとしか見えなかったけど、空気のよく澄んだ日には、散居村の砺波平野や医王山の峰々、日本海や立山連峰までが一望にできるのです。そして振り返れば、能登宝達山やそれにつらなる奥能登の山々までをも望むことが出来きます。北陸観光の穴場中の穴場ですね。4月下旬から5月初旬には、倶利伽羅山の3000本の八重桜がそろって開花し美しいですよ。
倶利伽羅不動寺入り口には
手向神社の鳥居
祠には前田家の梅鉢紋の幕
お不動様
 金沢から高岡へ自動車で向われるときは、北陸自動車道もいいけど、時には源平盛衰記の舞台ともなった倶利伽羅山をドライブして越えてみるのもおつなものです。
 さて、この倶利伽羅山の峠には、真言宗高野山派の倶利伽羅不動寺というお寺があります。今を去ること1300年の昔、インドの高僧善無畏三蔵法師が、元正天皇の勅願により開山。倶利伽羅とはインドのサンスクリット語で「黒龍」の意味。黒龍の巻きついた剣を持った姿のお不動様は日本ではこの倶利伽羅不動尊だけだそうです。
 江戸時代には、倶利伽羅明王院の名で知られ、加賀前田家の祈祷所として藩主の手厚い保護を受け、また加賀藩の参勤交代の休憩所としても栄えました。
 前田利長は、倶利伽羅の堂宇が長く続いた戦乱により荒れ果てている様子を見て、寺院の再興を願い、高僧秀雅を倶利伽羅長楽寺の住職に召し迎えました。そしてこの倶利伽羅の霊場に保護を加え前田家の祈祷所としました。また、慶長19年(1614)には、三代藩主の利常が利長の病気の平癒を祈願して、長楽寺に不動堂を寄進しています。今の手向神社の祠がその不動堂の名残だそうです。利長や利常とも縁の深い寺というわけですね。
 現在もこの倶利伽羅不動は、とても人気のあるお不動さんで、熱心な信者の方が多いです。護摩祈祷を受けると大変にお利益があるとか。ところで、この寺の境内にある売店のその名も「倶利伽羅そば」。値段は安くて、結構いけます。地元ではうまいと評判。ご参詣の折にはぜひどうぞ。
なぜ、ここで倶利伽羅のお不動さんのお話を持ち出したかというと、このお不動さんも高岡の地鎮祭に関与しておられたようだからなのです。

 「高岡城地祭の事、はや倶利伽羅明王院へ申し付け、執行致し候間、この由、芳春院殿へ被申べく候。尚々、芳春院より帷子下され候物ども、いつにても懇儀に御礼申し上げ候、よく候べく候。かしく。五月十七日」
この書状は慶長14年(1609)5月17日に利長から、側近の神尾図書に宛てられたもの。
 「高岡新城の地鎮祭のことは、既に倶利伽羅明王院に申し付け執行致したと芳春院殿へ申し伝えよ。なお、芳春院より帷子を頂いたので、丁寧にお礼申し上げるように頼んだぞ。」
と利長は言っています。
 この倶利伽羅明王院とは、誰なのか。
秀雅上人坐像
地元には、先にお話した南光坊を天海とは無関係とし、倶利伽羅明王院と南光坊が同一人物とする見方もあります。この倶利伽羅明王院の地鎮祭の後日譚として、まつが僧侶ではなく陰陽師によって地鎮祭を行うように指示を加えたのだと。
 しかし、地鎮祭を行った人物を一宗教、一宗派、一人物と考える必要があるのでしょうか。倶利伽羅明王院と南光坊とは別の人物、高岡の地鎮祭に関するふたつの資料に連脈はないと考えてもよいのではないでしょうか。地鎮祭は何人かの宗教者のジョイントで行われたのだと。
 私は、倶利伽羅明王院とは、倶利伽羅不動、中興の祖秀雅ではないのかと考えています。倶利伽羅不動寺には今も秀雅堂とよばれる小さな御堂があって、秀雅上人子孫の俵さんが大切に御堂を守っておられます。
 御堂には秀雅上人の坐像が安置されており、躰部内面に記された墨書銘から寛永19年(1642)に泉州堺仏師藤原朝臣式部法眼道運によって制作されたことが分かっています。そして、秀雅上人は寛永15年(1638)に92歳で没したことから逆算すると、秀雅は天文16年(1547)生まれで、利長よりも14歳年上。高岡地鎮祭が行われた慶長14年(1609)、秀雅は62歳ということになります。
南砺市福野町の安居寺
金沢市卯辰山にある永久寺の石仏
今は姿を消した長楽寺の後
 秀雅の生い立ちや遺業については、『歴史秘話倶利伽羅峠』高山精一著に詳しいので、参考にしながら簡単にお話しましょう。
 秀雅は倶利伽羅の百姓・左兵衛の子として生まれました。幼少の頃から福野の弥勒山安居寺の秀海阿闍梨のもとで学びました。(この安居寺も前田家の祈祷所として栄えた寺で、前田利長は安居寺に梵鐘を寄進するなど手厚く保護したことが知られています。)
 末森城攻めのときに、倶利伽羅峠でいち早く佐々の軍勢の動きを知った秀雅は、これを前田家に知らせて前田利長の信頼を得ます。金沢寺(後の永久寺)の住職となった秀雅は、慶長7年(1602)、利長により浅野川上流に寺領を与えられ金沢寺を移しますが、その後、利長の命により、天正の戦火で衰退した倶利伽羅長楽寺を復興させるため、慶長10年に金沢寺を弟子秀縁に譲り倶利伽羅長楽寺に移りました。  
堂宇の再建をするのに、秀雅は
 「一本の木で寺を建てて見せましょう」と利長に豪語します。
 利長は、笑い飛ばして
 「一本の木で寺がたつ道理がない。やれるならやってみろ。どこからでも木を切り出すがよい。」といってしまいます。
 すると、秀雅は、さっそく氷見で根回りが十尋もあり何本もの幹に別れた、松の巨木を見つけ5・600人もの人夫を集めて切り倒そうとします。氷見の漁師たちは、
 「その松は我々が海に出て漁をしている時の大切な目印だ、切り倒されては都合が悪い」と反対しますが、秀雅は
 「殿の許可を得ている」
 と言って巨木を切り倒すことに成功。この巨木1本をもってみごとに倶利伽羅長楽寺の伽藍再興をなします。
このような神世の代からの巨木を切ってしまうとは思いもよらなかった利長は、
「秀雅のやつめ、我を手玉にとりおって、憎らしき坊主じゃ」
と苦々しく思いながら、完成した長楽寺に行きます。するとどうでしょう、山門に堂々と「前田利長公建立」と書かれた額がかけられていました。それで利長は秀雅を憎む気になれず、ますます信頼したそうです。
 なんだか、一休とんち話のような話ですね。
 また、秀雅は、焼け残った倶利伽羅長楽寺仁王像の胎内から、源頼朝の寄進状を発見し、それを前田利長に示し
 「武士の大将、源氏ゆかりの品とは、吉兆。利長殿、ますますご繁栄の証にございましょう。」といって利長を喜ばせ褒美を得たそうです。
 ところが、この寄進状、近年になって鑑定したところ全くの偽物だと分かりました。秀雅が自分で書いたのではないかと言われています。秀雅の巧みな演出に、ここでも利長公はみごとに引っかかってしまったようです。
高岡市関町の総持寺
 秀雅は、利長に眷属して富山・高岡と従い、倶利伽羅長楽寺、金沢の金沢寺、富山の富山寺、高岡の総持寺の住職を兼務したそうです。
 以上が簡単な秀雅の経歴です。
 末森合戦では情報戦に一役買い、利長をだまして巨木を手に入れながら「前田利長公建立」の額でよいしょをし、源頼朝寄進状の偽造で利長を喜ばせて寵愛を得るなんて、秀雅は渡世術の上手なお坊さんだったようです。
 そして、倶利伽羅長楽寺、金沢卯辰山の金沢寺、高岡の総持寺、富山の富山寺の住職を勤め、一向一揆の戦火で衰退しきっていた真言宗高野山派寺院の復興を図るとは、たいへんに実行力・指導力にも長けた傑僧だったのでしょう。5・600人の人夫を集めて巨木を切り倒すなんてところにだって、そのカリスマ的なリーダーシップはしのばれます。
 さて、「幻の高岡城を探せ」の調査では、高岡城に関する新資料が多数発見されましたが、その中のひとつ、高岡市中川上町塚本幸史氏所蔵の「射水郡分記録等抜書」には、次のような内容がかかれてありました。「慶長14年(1609)3月富山城が焼失したので、利長様は魚津へ移られた。その年、中川村関野に新城を建てようと、冨田越後殿・神尾図書殿が見立てをされ、高山南坊殿・山崎閑斎殿が縄張りをされ、城が完成した。城の地祭りを執り行い、高岡と名付けたのは総持寺の僧である。」
高岡城の地鎮祭を行い、高岡と名づけたのは総持寺の僧。この僧とは、秀雅のことを指しているのではないでしょうか。先にも述べたように秀雅は高岡総持寺の住職も兼務していたのです。
 これに符合する内容が、『三州遺事拾補』という古文献にあります。以下は、その内容です。
利長は、関野を新城の地とし引越しする時に、随行する秀雅に尋ねた。
「秀雅よ、関野という名をなんと改めたらよいだろう」
秀雅は、思索するでもなく、あらたまるでもなく、立ったままで、
「高岡と改められるのが宜しいでしょう」とすっと即答した。
利長は、
「永代変わらずに使い続ける名であるのに、あのようにさっさと答えて大丈夫なのか」と思い、高岡と命名する旨を念のため宮中の学識者にも相談した。
すると不思議なことに、その学識者は、
「高岡と名づけられるのが宜しいでしょう。高岡の名を推挙した秀雅上人は凡人でありませぬな。」と、ことのほか秀雅上人のことを崇敬していたという話。
 私、長兵衛に言わせると河岸段丘の高い岡の上にできた町だから高岡であり、地形そのまま何のひねりもないと思うんだけど、この話しでは「高岡」の名は宮中の学識者もうなるほどのすばらしい名前だというのですね。驚きました。
 そして、これによれば、高岡の名づけ親は秀雅ということに。そうすると、先の「高岡城地祭の事、はや倶利伽羅明王院へ申し付け、執行致し候」の倶利伽羅明王院、「高岡城の地鎮祭を行い、高岡と名づけたのは総持寺の僧」の総持寺の僧とは、秀雅ということに絞られてくるでしょう。
 従来、高岡の名づけ親は総持寺の22世快雄という名の和尚だと言われてきました。しかし、高岡地鎮祭の執行者と併せて、高岡の命名者についても再検討してみる必要がありそうです。
 以上、築城そのものから少しかけ離れてしまいましたが、とても興味深かったので高岡の開町地鎮祭のことを取上げてみました。

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