南光坊と吉田陰陽師
伏木勝興寺所蔵の洛中洛外図の一部 
方広寺大仏殿と豊国神社・豊国廟大仏殿の後ろに秀吉の慰霊を祭る豊国廟と参道がはっきり描かれている。
 『壬子集録』の「斉藤四郎左衛門覚書」の中には次のようなことが書かれています。
「利長が南光坊に高岡の地鎮祭を執り行わせようとしたところ、江戸で人質生活を送る芳春院まつがこれを聞き及び『地鎮祭の祈祷は陰陽師の役目である。僧侶に仰せ付けられるのは、適当と思われない。吉田右衛門を高岡に遣わしますから、早急に、地鎮祭をやり直すように』とおっしゃった。利長は、吉田に地鎮祭をやり直させ、そのことをまつに報告した。」
 南光坊とは、徳川幕府の宗教顧問として、家康・秀忠・家光の三代にわたって権勢を振るっていたあの南光坊天海なのでしょうか。
 南光坊天海は、14歳の頃から延暦寺など諸寺を遍歴し、その器量の大きさから慶長12年(1607)比叡山の探題奉行に任命され、内部抗争が絶えなかった比叡山全体を取りまとめる重任につきました。このとき、延暦寺東塔の南光坊に住んでいたので,のちに南光坊天海と呼ばれるようになります。翌年、家康に召されて駿府におもむいてからは、崇伝とともに家康の宗教顧問として働き、権力を振るったので「黒衣の宰相」と言われました。
徳川家康
 天海は、日光東照宮の設計者として著名ですが、江戸の都市設計にも多大の影響力を発揮していたといわれています。彼によって江戸の寺社仏閣の配置は決められましたと考えられています。そして、江戸の町に、宗教的結界が幾重にも張り巡らされた陣形を作り、魔物の進入から江戸を防御していたというのです。例の「大江戸魔方陣」ですね。
 一説によると、家康が天下を取ることに成功したのは、天海の風水の方位学と占星術の力によるのだとか。占星術を使って家康と諸大名との相性を知り、相性の悪い大名は占星術的な陣形の力によって封印し自滅させようにしたそうです。また、敵対する大名には運勢の最悪の時期に攻撃をしかけ、本領を発揮できぬうちに滅亡させたとか。
 高岡の地鎮祭は、その南光坊天海の流儀の下、行われようとしていたというのでしょうか。これは、わくわくするような興味深いお話です。
 ん? ちょっと待て。おいおいそれじゃ、高岡がやばいんじゃないの。南光坊の風水の方位学と占星術とやらによって、封印されてしまって自滅の道に追いやられようとしていたわけか? これは仰天です。
 南光坊天海は、徳川家康の死後、日光東照宮を創建して家康を祀り、山王一実神道を唱えました。これは、天台宗の根本経典「法華経」を中心にした山王神道だそうですが、簡単に言ってしまえば、家康を東照大権現として神格化するために編み出された東照宮神道です。とにかく、天海は山王一実神道で当時、神道界の頂点にあった吉田神道に対抗し、その上を目指したかったのです。理念的にも日光東照宮を神道界のトップにすえることが天海の使命でした。人間界でも神の天界でも、徳川家をトップに置きたかった。
 吉田神道は、室町時代に吉田兼倶によって唱えられた神道思想で、唯一神道ともいいます。伝統的な神仏習合論を否定、神が全てであり仏は神が姿変えたにすぎないとし、神道を仏教、儒教よりも上位におき、「あらゆるものの源は神道」だと主張しました。豊臣秀吉の庇護のもと活躍した京都吉田神社の神主吉田兼見は兼倶の5代目に当たります。そして、兼見の弟吉田梵舜は、兄とともに豊臣家の宗教顧問として活躍した人物でした。
京都 吉田神社大元宮
京都豊国神社
 吉田家の次男は氏寺である神龍院に入ることが習わしであり、吉田梵舜も仏門に入りました。慶長四年(1599)、兄兼見の後押しもあり、梵舜は方広寺隣りに建てられた豊国神社別当となりました。徳川家康は一時、吉田梵舜を尊敬し彼から神道の伝授を受けようとしたそうですが、その後南光坊天海と急接近。 
 慶長13年(1608)には駿府に天海を招き重用するようになります。一方、豊国神社の吉田梵舜とは疎遠になっていったようです。
前田利家とまつ、そして息子の利長は、豊臣家の重臣として、秀吉と同様に吉田神道を信仰していました。特にまつは、自らが重病を得た時に吉田神道の祈祷で完治した経験を持つことから、吉田神社に信頼をよせていたと言われています。夫利家が、朝鮮出兵に出陣する際には、吉田神社で吉田兼見に祈祷を行わせもしています。
 慶長3年(1598)豊臣秀吉が亡くなったとき、吉田梵舜が吉田神道の秘儀によって秀吉の霊を神格化して「豊国大明神」と号し豊国神社に祀りました。
卯辰八幡宮の旧地に建つ宇多須神社
利家の神霊を祀る尾山神社
 慶長4年(1599)3月に利家が亡くなった時、利長もまた、吉田神道の流儀によって利家を神格化し、金沢城の鬼門にあたる卯辰山に祀ろうとしましたが、徳川家の手前公然と祀ることが出来ず、同年12月に越中守山の海老坂八幡宮と越中阿尾の榊葉神明を合祀して、二重のカモフラージュで祭神の正体をうやむやにして、卯辰八幡宮を 建立。藩社として、密かに利家の神霊を祀りました。前田家が公然と藩祖前田利家を神として祀るようになったのは。明治政府となってから、卯辰八幡宮は前田利家を祀る尾山神社となり現在の地に移転し、卯辰八幡宮の旧地には、宇多須神社が建てられたのです。
 利長は、同じ卯辰山に豊国神社を建立しましたが、これも徳川家の目をはばかって「山王社」と呼び習わしていたのです。こちらも、明治政府となってから豊国神社と称するようになりました。
 このように、宗教からも、前田家の立場の複雑さは明白です。
 高岡の地鎮祭に登場する南光坊が、かの南光坊天海だとするならば、南光坊流の地鎮祭をよしとせず、吉田神道の流儀にこだわって、わざわざ遠い江戸から「吉田の陰陽師に地鎮祭をやり直させなさい」と吉田右衛門なる陰陽師を高岡へ派遣した芳春院まつの行動は意味深いものです。
 徳川家の人質として江戸にありながらも、「徳川家の言いなりにはならない。前田家には前田家のやり方がある」という加賀のゴッドマザーの強い意地が垣間見えるようではありませんか。
 さらにいえば、高岡の地鎮祭には、南光坊天海=徳川派、吉田右衛門=豊臣派の二つの勢力の葛藤が見えており、ここからも前田利長のディレンマが推察されます。
 結局、利長は吉田神道によって地鎮祭をやり直しました。そして、利長は派遣されてきた吉田右衛門なる祈祷師をその後も相談相手として側に置いたそうです。
 いやー、よかったよ。危機一髪のところで高岡を南光坊天海の封印から救ってくれたのは、まつさんの鶴の一声だった。
 長兵衛は、地鎮祭というと祝詞を上げて鍬入れするくらいの認識だったけど、そうではなかった。利長たちの時代の、しかも開町のため地鎮祭とは、地勢を占い風水の方位学や占星術によって、主要な建造物の立地を選定し、都市計画を行うことと連結する、重大な宗教儀礼だった。
 大阪の陣の後、豊臣家滅亡の余波が豊国神社に及ぶと考えた吉田梵瞬は、家康の側近に社領安堵を懇願しましたが聞き入れられず、元和元年(1615)、豊国神社の破却が決まりました。奇しくも、一国一城令によって高岡城の廃城が決定したのと同じ年のことです。
 豊国神社破却を目の当たりにした梵舜は、いたく傷心しました。徳川家康の仕打ちを心底憎んだ梵舜は、一説によるとこの時から家康への呪詛の祈祷を続けたとか。そして、その功あってか、元和2年(1616)に家康は、側近の茶屋四郎二郎から
 「大御所様、最近、上方で流行しているトレンド料理はこれでこざいまする。」
と教えられ、喜び勇んで食べた、鯛のテンプラにあたって死んでしまったのです。その後、梵舜の日記から頻繁だった祈祷の記録はぴたりと消えているとのこと。
 おそるべし、吉田梵舜・・・。
 この家康呪詛の一件に、前田利長お抱えの陰陽師、吉田右衛門なるものが、関っていたのかどうかは定かではありません。
 もしかすると、もしかするかも・・・知れませんね。
 高岡の地鎮祭が、このような宗教戦争の影響下にあったとは、いやはや、長兵衛は驚きました。今まで高岡開町の地鎮祭のことは、あまり問題にされてきませんでしたが、興味深いテーマであると思います。  

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