家康からの手紙
魚津の蜃気楼。タンカーが逆さに見える。魚津在住の方の撮影。
 駿府城に家康を江戸城に秀忠を訪ねて2年の後の慶長14年(1609)4月、利長は家康から一通の手紙を魚津で受け取っています。

  「不慮の大火が起こって、富山城も悉く焼失したそうだが、それはやむを得ないことだ。新城建築の場所については、どこでもあなた次第だから、気遣いはいらない。江戸の将軍秀忠にも必ずその様にさせる。私も駿府城に火事が起こった時は大変に取り乱したので、そちら富山城のご様子はご推察している。4月6日 家康より越中中納言(前田利長)殿へ」

 慶長12年12月に駿府城が火災にあったことはすでに述べましたが、今度は利長の富山城が火災に会ったのです。慶長14年(1609)3月18日、焼けた富山城を脱出した利長は、近隣の魚津の仮屋敷に滞在しました。蜃気楼とほたるいかで有名なあの魚津です。     
 その半月後の4月6日の日付で駿府城の家康から、魚津の利長に火事見舞いが届きました。おそらく、先に利長から家康宛に、富山城が火災の旨、そして早急に高岡に新城を築きたい旨を書いた書状が送られ、これはその返事なのでしょう。
 「新城建築の場所については、どこでもあなた次第。どこに城を建てようと、この家康はいっこうに構わない。」と、いかにも大物然とした家康の返事。この見舞状は、新城建設の許可状でもありました。すなわち、ここに高岡新城の誕生は決定したというわけです。
 利長は通称「羽柴肥前守」。豊臣秀吉から下賜された羽柴の名前で呼ばれていましたが、家康の書状では利長を「越中中納言殿」と呼んでいます。この頃、利長は「中納言」の官位を辞退しているのにです。
 このあたりにも、家康のこだわりが感じられます。秀吉から下賜された羽柴の姓を家康は使いたくなかったのです。しかし、利長は終生、羽柴肥前守の名を使用していました。地元に残る利長書状には、羽柴の「は」と肥前守の「ひ」で「はひ」と利長のサインがかれています。
 この書状の使者を務めた宮崎蔵人なる家臣は、魚津−駿府間の往復を僅か11日間という当時としては驚異的なスピードで成し遂げ、利長から褒美を貰ったそうです。城を失い身包みはがれた状態となった利長は、家康からの許可を性急に待ち望んでいたのでしょう。一刻も早く高岡築城許可の報を届けようと、必死に馬を駆り、魚津に戻った宮崎蔵人であったと思われます。
 高岡市立博物館ホームページ、仁ヶ竹学芸員さん作成の高岡城関係資料『徳川家康書状』を参考としました。
http://www.e-tmm.info/monjyo-1.htm  

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