カルチャーショック
江戸時代後期、シーボルトが収集した絵巻物の中にある駿府城の絵。
駿府城天守閣は、寛永12年(1635)に焼失。以来再建はされなかった。
 駿府城は、隠居城とはいえ大坂に対する防御の砦として築かれたわけで、豊臣方との合戦の準備は着々と進められていました。大坂の陣で、家康はこの駿府城から出陣し、この駿府城に凱旋したのです。
 徳川の豊臣潰しのための砦づくりに、加賀前田家は多大の尽力を要請されました。そして、徳川家への忠誠心を表明する意味において手伝い普請をしなければならなかったのです。先に述べた利長の駿府・江戸への謁見行為も「服従」の表明です。先代利家の時代には、豊臣家筆頭の重臣として秀吉の信頼を得、徳川の重石となっていた前田家が、今や徳川家忠義の家臣になろうとは・・・。
 家康の存命中、駿府城は実質的な政治の中心でした。金地院崇伝が「武家諸法度」や「禁中並公家諸法度」や「キリシタン禁教令」を起草したのもこの駿府城。崇伝のほかにも江戸幕府の核となる優秀な人材の多くが、家康の顧問として駿府に集められていたのです。
  ・金地院崇伝  宗教 政治 司法
  ・南光坊天海  宗教 都市計画
  ・林 羅山   学者
  ・ヤン・ヨーステン   外交
  ・ウィリアムアダムス  外交
  ・茶屋四郎次郎    通商
  ・後藤庄三郎     通商
 優秀な人材による官僚制度によって幕府の経営を維持していこうと家康は考えていました。もはや、武力や忠義によって政権を継続していく時代ではないことを知っていたのです。
 近世初期、駿府は江戸をしのぐ政治都市であり文化都市でした。また、その頃の駿府は、人口が10万人だったとも、12万人だったとも言われ、京都・大坂・江戸に次ぐ大都市でした。町は、防御性よりも商業の利便性、発展性を重んじ、正方形のブロックを並べた碁盤目状の町並みが採用されました。曲がり道やT字に交わる行き止まり道は、駿府の町には見当たりません。まっすぐな貫通道路が何本も走り、すっきりとした印象を与える町景観は、駿府城下町の将来の発展を約束しているかようでした。
 新たな息吹に包まれる駿府城下町を訪れた前田利長は、そこで何を感じたでしょうね。
 利長は、駿府の町が産声をあげる様をその眼でつぶさに見ました。家康の傍にはべる優秀な側近たちの姿も見たでしょう。そして、家康の恐るべき力量を知ったことでしょう。利長が受けた衝撃は大きかったと思います。
 しかし、利長はただ驚嘆や羨望に終始するだけでなく、自らの藩の経営や城下町作りに活かせるヒントをこの駿府で見つけたに違いありません。

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