駿府江戸珍道中
駿府城絵図 赤丸の印は加賀藩が普請を担当した箇所。
 慶長12年9月、前田利長と50名の家臣団は、徳川家康に新築祝いの謁見をするため、富山城を発って信州善光寺を経由し、甲州から駿府の家康のもとを訪ねています。そしてさらに、東海道を下って江戸に行き、徳川秀忠に将軍着任の祝いの謁見しました。これは、馬での旅でした。
 加賀藩から駿府城の普請に赴いている前田家家臣や大工・石工たちは、利長の訪問に身の引き締まる思いだったでしょうね。なにしろ、この殿様「酒、盃三杯以上はご法度」などと厳しいお達しをなさったのですから。
 築城普請の喧騒の中を通って、利長は駿府城本丸へと向かい、新築の木材の香りの立ち込める殿舎の奥深く足を運んで大御所徳川家康に謁見しました。
 「この度は、駿府の御城の御完成、誠におめでとう御座いまする。また、御嫡男秀忠公におかれましては、江戸城にて征夷大将軍に御着任、重ねてお祝い申し上げまする。」
 家康は、高座から利長を見下ろしこれに答えたのでしょう。かつては、ともに豊臣家五大老といわれ、連判の書状を成した間柄であった家康と利長も今や主従の関係です。
 家康への謁見を無事終え、駿府を後にした利長の一行隊は、続いて将軍秀忠に謁見するため江戸へ向かいました。
 駿府・江戸に向う途中の加賀藩一行には、このような前田家の複雑な状況とはうらはらに、面白いエピソードがあるので紹介しましょう。
 前田利長の一行は、馬に乗った50人の団体でした。江戸に行くに当たり、利長殿自らが、
藤沢宿
 「見苦しい姿をしていて、田舎サムライと思われたくない。きれいに格好を整えて参ろうではないか」と言いました。よくわかるな、その気持ち。
 そこで、馬の鞍に新調の虎の皮をかけ、南蛮渡りの美しいラシャの布であつらえたカッパを着用するというおしゃれぶりでバシッときめた利長の一行は、意気揚々と富山城を旅立ったのでした。
 まぁ、今で言うならば、商用車の座席のシートを虎柄の皮製にして、社員50人がぴかぴかのアル・マーニのスーツを揃いで着用ということろか・・・・。
 なんか、すごいな、これ。かたぎの商売ではないな。ちと、たとえが悪かった。
 とにかく、街道を往来する人の目を釘付けにするハデハデ軍団。さすがは、カブキ者といわれた利家の血を引く息子、前田利長です。
 駿府で家康に謁見し、続いて秀忠に将軍着任の祝いの挨拶をするため、江戸へと向った利長率いる50人の加賀藩士。江戸では、人質生活を送る母芳春院まつに会える。利長の心ははやります。
川崎
 「母に我の晴れ姿を見せねばな。」
 ところが、藤沢の宿場まで来たときに、ある家臣が
 「殿、せっかく、ここまで来たのですから、拙者は鎌倉に行ってみとうございます。今、鎌倉に行かなければ、終生鎌倉には行けずじまいでありましょう。殿、なにとぞお許しを。」と言いました。
 すると、我も行きたい我も行きたいと鎌倉見物ツアーを願い出るものが相次ぎ、なんと50人中30人が、
 「急いで鎌倉見物を終え、追いつきますゆえ、殿、なにとぞお許しを。」
 と鎌倉に行ってしまったというのです。こんなおかしな話ありますかねぇ。利長さんも利長さんで、なぜ、家臣のそのようなわがまま勝手を許してしまったのか・・・。
 で、たった20人ほどでトボトボと江戸に向っていると、途中、川崎(この時まだ宿場はなっかたそうです)近くまで来たときに運悪く、西国大名の江戸参勤の一行と出くわしてしまった・・。西国大名はおそらく、関が原で減封、転封の憂き目にあい、家康に江戸参勤を強要されて、しぶしぶ江戸に来たのでしょう。加賀藩にけっしてよい感情は持たぬはず。
 すれ違いざまに、
「なんだ、あいつら。関が原ではうまくしてやり、百二十万石を食む大藩になったと言いながら、あの少勢。虎の皮なんぞで立派に飾った馬とは、釣合いのとれぬ貧弱な行列であることよのぅ。あは、は、は、は。」
そんなこと言われたかどうか知らないが、利長公はここでたいそう立腹し、
「鎌倉に行った連中め。世に恥をかかせよって。せっかく新調した装いもこれでは、これでは意味をなさぬではないか。世は、立派な騎馬行列で諸大名たちを威圧したかったのじゃ。許さん。あの者たち、即刻、切腹じゃ。・・・・・い、いや、扶持離し(解雇)じぁ。」
と、大爆発してしまいます。が、思いなおして、
「いやいや、待て。これほどの事で切腹・解雇とは酷だ。・・・そうじゃ、罰金じゃ。」
ということになり、その罰金すらも徴収されぬうち、結局うやむやに終わっていったとのこと。
東海道五十三次一人旅ホームページより http://japan-city.com/toukai/
 鎌倉を代表する名所となっている高徳院の大仏は、暦仁元年(1238)3月から造り始められたそうです。大仏開眼は5年後の寛元元年(1243)。この時、建立した大仏は木造だったそうです。4年後の宝治元年(1247)にこの大仏が暴風雨の為に倒壊したので、建長四年(1252)にあらためて大仏殿を備えた、金剛の大仏が造営され始めました。しかし、大仏殿は建武二年(1335)の台風で倒壊。さらに明応四年(1495)には、なんと大津波で大仏殿がまるごと押し流され、以来、現在の様な露座の大仏となってしまったのです。鎌倉大仏の高さは12.38m、総重量は121トン。(ちなみに、高岡大仏は、座高7.43m・総重量65トンです。)
鎌倉大仏
高岡大仏
 利長の家臣たちは、きっとこの鎌倉大仏を見たかったのでしょうね。なんといっても、大仏好きな高岡のご先祖たちだからね。
 鎌倉大仏の鎮座する高徳院の名は、奇しくも藩祖前田利家の法名「高徳院殿桃雲浄見大居士」に同じ。そんな縁も家臣たちは感じていたのかもしれません。それとも、武家文化の象徴、禅宗寺院建長寺の七堂伽藍が目当てだったのでしょうか。
 この30人の加賀藩士、立派な虎の皮飾りの馬に乗り、ラシャのおしゃれなカッパを着ての鎌倉見物にさぞや満悦のことだったと思います。殿様の気持ちも知らないで。
 おっと、気づけば、またまた脱線して、今回も大仏の話となってしまいました。
 それにしても、先の太田但馬事件や駿府城普請を拒んだ者への刑罰、17条ご法度から推察される加賀藩内部の事情を他所に、なんともおおらかなこの駿府江戸道中記。ちょっと、ほっとしますね。
 江戸で人質生活を送る母芳春院まつに会えると思うと、うれしくて何でも大目にみておられたのか、藩士のわがままに目をつぶって鎌倉見物ツアーを許してやる利長公。そして、いたく立腹しながらも、結局は罰金を見逃してくれた利長公。隠されたお人柄が見え隠れする一件です。金沢城での利長とは別人のよう。
 利長の江戸参勤はこの時が二回目。利長の江戸参勤は、大名の江戸参勤の歴史や街道の発達史を知る上でも意味深い事例です。利長の一回目の江戸参勤は、大名の参勤交代の第一号に数えられているそうですよ。
 加賀藩の参勤交代はその規模の大きさで有名でした。その総勢は最大時で約4000人。他藩とは比べものにならない、ずばぬけた大人数です。さすがは大藩加賀百万石の大名行列ですね。しかし、その萌芽期と言うべき、慶長12年9月の利長の江戸参勤では、きれいな格好を整えながらも、以上述べた様な家臣たちのわがままし放題のせいで、加賀の大御所、利長が恥ずかしい思いもしていたのです。
 ちなみに、注目の「虎皮の鞍覆い」ですが、これは後に、御三家・御家門と国持大名30数家の大名行列にかぎり使用が許された贅沢品で、大変なステイタス・シンボルでした。江戸参勤にあたり、家臣50名全員に「虎皮の鞍覆い」を新調した前田利長は、並外れて太っ腹で見栄っ張りな殿様だったといえます。「虎皮」は朝鮮半島からの輸入品。これも利長が譲り受けた豊臣家遺産のひとつでしょうか。
 さて、この時の利長の旅路は、行きは富山を出て「信州善光寺より甲州にかかり、女坂、柏阪を通り」駿府に到着。そして、東海道を下って江戸に至りました。帰りは「飛騨越え」をして「越中八つ尾に出、御堅固に富山へ御入城」とあります。信州から飛騨・八尾経由で、元気に富山城に戻ったのです。帰りには10日間を要しました。
 加賀藩が江戸参勤に要する日程は、標準で12泊13日であったそうです。これとくらべると、利長の一行は、なかなか迅速に旅をこなしたようです。この頃の利長は、すこぶる健康に恵まれ体調は良好。この駿府江戸旅行の数日後には元気に鷹狩りをしています。そして、駿府江戸旅行の後、しばらく休暇をとっている家来たちに、
 「いつまで休んでおるか。あれくらいの旅の疲れなど、一日か二日休めば充分じゃ。気合だぁ。気合だぁ。」と、またまた厳しいお達し。
 やっぱり、鎌倉見物の一件を根に持っておられたのでしょうか・・・。

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