駿府手伝い普請
復元された駿府城二の丸 巽櫓と御東門
静岡見て歩き
ホームページより  http://www.asahi-net.or.jp/~kw2y-uesg/index.htm
 天下普請で行われた駿府築城の手伝い普請は、三代目加賀藩主の座について間もない、前田利常にも課せられました。前田家に当てられた普請場は、偶然なのかこれも徳川家の意図によるものなのか、なんと駿府城の東北と南西、つまり鬼の通り道であるという鬼門と裏鬼門の場所。何だか、不吉じゃありませんか?これって。
 しかし、幕府から言い渡された手伝い普請。何があっても行かなくてはなりません。行かなければ加賀藩は、取り潰される・・・。
ところが、先にも述べましたが、関が原合戦の後、加賀藩内部ではいざこざがあり、なかなか意思統一が図れない。藩主とはいえ若干17歳であった利常には未だ家臣を統率して、手伝い普請の采配をするまでの器量はなかったとみえ、利常に代わって利長が慶長12年(1607)5月3日に「駿府御普請に付、筑前守(利常)家中の面々法度の事」という延々17条にも及ぶ厳しい就業規則を加賀藩家臣に発しました。17条とは、利長公、聖徳太子の17条憲法に真似たんですかね。
 内容の一部をあげてみましょう。

他藩の御家中とはもちろんのこと加賀藩士どうしのけんか・口論を禁止。
宿泊場所は地元の宿場を利用せず、仮設宿泊所を作ってそこで寝起きせよ。
駿府城下町やその周辺で馬に乗ることは禁止。
他藩のものとは身分を問わず親類縁者・知合いといえども交渉を持ってはならない。
女狂いや若衆狂い、風俗的な遊びごとや勝負事・賭け事も全てご法度。
食事は一汁二菜か一菜で、酒は一日盃三杯まで、などなど。

 以上のように、駿府の普請場でのトラブルにつながるような行動は、ことごとくが禁止されたのです。
 しかし、私のような日頃の慎みに欠けるものなどには、かえって家臣や人夫たちの不満が爆発しないかと思いますねぇ。特に、「酒一日盃三杯」とは・・・・、酷だなぁ。
 このように、異例の厳しい就業規則を設けなければならないほど、加賀藩家臣たちをおとなしく駿府城普請に向わせ普請に従事させることは難しかったのです。それに、関が原合戦からそれほど月日を経ていないのですから、戦火がくすぶっているような不穏な情勢もあり、駿府の普請場にはいうならば一触即発の空気があったのでしょう。
 前田利長だけでなく、毛利輝元なども、駿府城普請に赴く家臣に対して「駿府御普請について申し聞かす条々」なる法度条をだし、トラブル防止のための行動規制をしています。
 でも、「酒一日盃三杯」など細かいことを言っているのは前田家だけのようですね。
 家中の者にしてみれば、
 「何で、徳川家康の城をわれらが作らにゃいかんのじゃ。徳川の家中とは顔を合わせるのも御免。徳川の手伝い普請などをしたとなれば亡き殿にも太閤様にも、申し訳が立たぬ。加賀藩は、内股膏薬の軟弱者と人からも笑われよう。武士としての面子は丸潰れでござる。利長殿は一体何を考えておられるのだ・・・・。しかも、酒は、一日盃三杯とは。」
 との思いが強かったのです。
 現に家臣たちの中には、駿府城手伝いをボイコットする輩もありました。利長は、斬首刑2名、領国追放6名という厳しい処罰でこれに応じています。加賀の大御所として、加賀藩の家臣団を統べていくのは大変だったようです。利長は神経をすり減らしたでしょうね・・・。  

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