幻の高岡城を探せ
和田川で見つかった高岡城石垣の石 高岡市立博物館展示
 上掲の写真は、大門町を流れる和田川で発見された高岡城の築城石です。1トン以上にもなる大きなもの。石を切り出す時につけた矢穴の跡がくっきりと残っています。石を特定の大きさに切り出すため、くさびを石にたてゲンノウと呼ばれる大型のハンマーで石を打ち割るのですが、矢穴はそのくざびの跡です。
関野之古図の一部 
今の高岡市美術館 横の坂道カープのところが源野坂
 高岡の古い地名に、「源野坂」があります。高岡城が築かれたとき、建築用材の輸送路として使われた坂道の旧地名を「源野坂」と言っていたのです。「源野」は石割り道具の「ゲンノウ」にちなむものと言われています。
 それから、この石には刻印もはっきり見ることができます。石は高岡古城公園内の高岡市立博物館の前に展示されていますので、ぜひ目で見て、手で触れて観察してください。
 もう2年も前のことになりますが、高岡市と全国城下町シンポジウム高岡大会実行委員会では、「幻の高岡城を探そう」と銘打って、高岡城関係史料調査を実施。その結果のひとつとして、大門町地内の和田川常盤橋付近の河床に高岡城の石垣に使われていた石が、かなりの数残されていることを確認しました。
 地元郷土史家の飛見丈繁著『高岡古城公園ものがたり』(昭和40年発行)には、
 「高岡城礎石の行方の判明せるものは、中川村熊野神社の石灯篭に用いられたもの2個、昭和34年9月金屋町に建てられた『高岡鋳物発祥記念碑』に使用された5個があるに過ぎない。・・・中略・・古老の談などを綜合するに明治の初年大門町を貫流する和田川大洪水のため堤防の欠積はなはだしく、これの復旧資材として公園内より搬出されて堤防の基底に利用されたのであった。」とあり和田川堤防に高岡城の石垣石が使用されたことは、古くから知られていましたが、今回の呼びかけに答えて、市民からも「和田川常盤橋付近に築城石垣の石と思われる大石多数あり」との情報が寄せられたので、さっそく調査を行ったところ、今回の確認に至ったわけです。
 和田川堤防付近には、矢穴や十、田などの符号が刻まれた大石があり、高岡城の石垣石に間違いなしということで、早速2004年の3月に和田川から引き上げられることになりました。どの石も重さ1トン以上の大石。ワイヤーで固定しクレーンで引き揚げたそうです。このほか、大門町内の神社や個人宅3か所で、高岡城石垣の石と思われる石が発見されました。
和田川で見つかった高岡城 石垣石の刻印 高岡市立博物館展示
 和田川から引き上げられた石垣石は、現在、高岡古城公園内の高岡市立博物館前のほか、同園内の本丸広場、大門町役場横の休憩所、大門神社などに置かれています。
 また、中川村熊野神社の石灯篭、金屋町鋳物公園内の高岡鋳物発祥記念碑についても改めて調査が行われ、高岡城の石垣からの石と同型の矢穴の跡が確認されました。下の写真に見るとおり、確かに矢穴の跡が見て取れます。石はともにかなり大きなもの。いつの時代に高岡城から運び出されたのでしょうね。
中川熊野神社石灯篭
鋳物発祥記念碑
それにしても、意外にところに高岡城の石垣石が使用されているものです。石灯篭・記念碑に再利用とは・・・。石灯篭などかなり不思議な形。高岡市民の造形的センスに驚嘆です。
古きものをいつまでも大切にという尚古主義からなのか、スクラップ・アンド・ビルドということなのか、それとも、「ほっぱるがぁおとましい(棄てるのはもったいない)」「ほっぱらんと、また使おうまいけ。(棄てないで、また使いましょう。)」という高岡の人の節約精神からなのか・・・。
平成15年6月から11月にかけて行われたこのリサーチ「幻の高岡城を探そう」は全国に呼びかけて行われました。地元の石垣石のほかにも、高岡市民や県内外の図書館等の協力があって、高岡城に関係する絵図15点、古文書類57点が確認されました。
新発見の史料については、高岡市立博物館の学芸員さんが、ホームページを通してとても詳しく解説しておられますので、ぜひご覧いただきたいと思います。これらの新発見資料についてより一層考察を深めることは、今後の「高岡学」「高岡古城学」の重要な課題でしょう。

高岡市立博物館ホームページ
http://www.e-tmm.info/
ところで、当社工場脇にも、怪しい大石がひとつ。左写真の石はもしや、幻の高岡城石垣の石では? 石工がつけた矢穴がふたつきちんと並んでいるように、長兵衛には見えるのですが、如何なものか。
 この石の所在は、かつての千保川川べりです。和田川だけでなく、千保川の堤防普請工事にも高岡城の石垣の石は使用されたのではないか?工場脇の石はその残骸ではないのか?
 どなたかに、ぜひ一度、当社工場脇の大石のご鑑定を願いたい。と、言っても『お宝探偵団』で頭かきかき退散するじいさんみたいなことになりかねないかな。
 先にも述べたとおり、意外なところに高岡城の石垣の石は使用されていました。灯台下暗しというけれど、私たちの身近に高岡城の遺物はまだまだ残っているんじゃないでしょうか。
有磯正八幡宮の石垣 かつては神社の周りをお濠が取り囲んでいて、まるで城塞のようだったと地元古老の談。
 高岡市内の有礒正八幡宮や本陽寺の亀甲くずしの石垣は、高岡城の石垣を移築したものだとの言い伝えがあります。これらの石垣についても再調査が必要でしょう。「幻の高岡城を探せ」の高岡城追跡調査を今後も続ければ、さらに新たな情報が得られるのではないかと期待しています。

 利長は、亡くなる寸前の慶長19年(1614)3月に、幕府へ家臣の本多正重を送って告げさせています。
 「我は、越中の隠居領を捨てて、全くの身軽となって余生を過ごしたい。隠居領や高岡城についてはなんの未練もない。一介の名も無き世捨て人となって京都の土に帰りたいので、我が死んだ時には、いつとはなく、誰にも知られぬように、京都大徳寺の芳春院に葬ってほしい、気が狂ったと思われても仕方がないが、これが我の隠すところのない正直な願望である。」
 前回の古城万華鏡Vでもお話しましたが、徳川と豊臣との2大勢力の狭間で追い詰められた状況にあった利長は、謀反の意志なきことを幕府に表明する意味でも、生前すでに高岡城の破却を望んでいたようです。
 2ヶ月後の5月20日、前田利長は高岡城で没しました。利長の死を機に人質を解かれた芳春院まつは、金沢に帰る途中、高岡の利長の墓に参詣。高岡城に残っていた利長の妻玉泉院永を連れて金沢へと帰国しました。主なき城となった高岡城を、同年の大坂冬の陣の際には加賀藩家臣の稲垣与右衛門が、翌年の大坂夏の陣では岡島備中守一吉が城代となって守りました。が、元号も改まった元和元年(1615)、徳川幕府により一国一城令がだされ、加賀藩は金沢城を残し、加賀・越中・能登、三州一の規模と攻防性を誇った高岡城を廃城としました。
 さらに、寛永14(1637)年、九州では島原の乱が起こり、城廃となっていた天草の原(はら)城を砦とし、キリシタンの一揆勢が立てこもり蜂起。第二のキリシタン一揆の勃発を危惧した徳川幕府は、島原の乱の戦後処理として、諸大名に対し廃城の破却をより一層徹底させたと言われています。
 高岡城は、以上のような経緯の中で、殿閣をはじめ、天守、櫓、門、そして石垣などが次々と破却されていったと考えられています。
 しかし、それらの用材はそのまま廃棄処分にされることなく、いずこの地かで姿を変え、リサイクルされて貴重な用材としての命をつないでいたのではないかと私は考えます。ちょうど、破却された豊臣家の伏見城が、京都の寺院などに下げ渡しされたように、高岡城の木材は、どこかの社殿や伽藍の一部に姿を変え、また石材は、寺社の石垣や河岸堤防や架橋台などに姿を変え、転用されたのではないでしょうか。
 今回、和田川で見つかった石垣石などはその一例でしょうが、今後も、時代の変遷を越えて「幻の高岡城」の片鱗は現代の私たちにその姿を見せてくれるかもしれません。さらなる高岡城との出会いを私は楽しみに待ちたいと思います。

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