二番町の曳山 宝庫の鳥居
はじめに
 5月1日は、高岡御車山祭。今年は日曜日と重ったこともあり、県外からの観光客も多かったようです。あるタクシーの運転手さんなどは、「入社始まって以来の忙しさだった」とうれしい悲鳴を上げておられました。しかし、途中であいにくの雨。曳山の巡行は中断されることに。それでも、3時間半ほどの曳山巡行を充分に楽しむことが出来ました。
この箱の中に神様の御魂が
 高岡観光に来て下さったお客様、ありがとうございました。山町筋の皆さん、曳き手の皆さん、お疲れ様でした。
 長兵衛、実は今年の御車山祭りではじめての経験をしたのです。などと私がいうと、なんとなくキモイのですが、実は御車山祭りの「神迎え」なる摩訶不思議な神事を生まれて始めて見たのです。
 それは、前日4月30日の夕刻、高岡の町が淡いたそがれの陽に包まれる頃に始まりました。二番町の住人たち数名が、紋付はかまに身を調えて、年番の家の前に集合。物も言わずに静々と関野神社へと向かい歩き始めたのです。彼らは、関野神社でのお払いを受け、神主さんから長さ1メートル余りもある、どでかい御幣と、ひとつの箱を貰い受けます。なんとこの箱の中には関野神社の神様の御魂が入っていて、これがなければ明日の御車山祭は始まらないのだという。そして、神様の御魂の正体とは、小さな2つの御幣。この御幣には神様の御魂が封じ込めてあるらしい。この箱を大人二人で担ぎ、二番町の元気なよい子たちを先頭に、楽人や、どでかい御幣を持った人たちに先導されて二番町へと帰ります。ショウ・シチリキ・横笛で賑やかに楽を奏でながら。
 そして、二番町の年番の家に到着すると、神主さんが箱の中の御幣をおごそかに取り出し、そこに安置されている「夫婦(みょうと)からす」のくちばしに、御幣をくくりつけ、町の人たちが皆そろって柏手を打ちます。これで烏は一年間の長い眠りから目覚めて神の使いとなるわけです。
 それから、まことにまことに長ーい長ーい祝詞の奏上が行われます。
このような神迎えの神事が御車山祭に先立って行われていることを、45年来の高岡住人である長兵衛は今年になるまで知りませんでした。この神秘的な儀礼を知らないのは、私だけではありません。高岡の人の多くはこの神事の存在を知らないでしょう。言ってみれば二番町だけの秘儀として伝承されてきたのです。
厳粛におこなわれる二番町の鎮魂式
夫婦からす
 二番町の神迎えのことを教えてくれたのは、地元郷土史研究家の樽谷雅好さんです。樽谷さんは、地元に残る民話や民俗儀礼の収集をライフワークとして活躍しておられ、特に高岡の中世史や寺院研究に熱意をもって取組んでおられます。
 樽谷さんによれば、この「夫婦からす」は、二番町の守護神「熊野権現」の使いだそうです。関野神社には熊野社が祀られており、また御車山巡行の途中で二番町の曳山が参拝する極楽寺には熊野権現が祀られている。御車山祭は熊野信仰の祭りだと教えてもらいました。
 「熊野ねぇ・・・。」
 10年ほど前、一世を風靡した加門七海さんの『大江戸魔方陣』。江戸ではいくつもの熊野社を二等辺三角形に配して熊野結界を作り、魔物から江戸の町を守っていた、また、平将門ゆかりの社を北斗七星の形に配して、江戸の守護としたということだった。高岡にも熊野結界や魔方陣なんてのが存在するのだろうか。これは、面白い!!
 高岡御車山祭りは、高岡の鎮守社である高岡関野神社のお祭り。繰り返すようですが、この社には熊野社が祭られています。この熊野社のルーツを追ってみました。
 そして、獅子の火渡り神事で有名な大門町の二口熊野神社に、興味深い言い伝えがあることを知りました。
 「慶長14年(1609)、水戸田熊野山中鎮座の熊野社が、前田利長によって城内鎮守神として高岡城内に移されたとき、御神霊が暫し御駐留になったゆかりの地に熊野社を創建したのが、二口熊野神社のおこりである。二口熊野神社は古くから、熊野新宮と称して崇められてきた。」
 つまり、大門水戸田の熊野山に古くからあった熊野社を、前田利長が高岡の鎮守とするために、高岡城に移した。そして、高岡城廃城からしばらく後に熊野社を移転したのが、高岡関野神社ということか・・・・。
 大門町の水戸田熊野山のふもとには、「熊野村」の旧地名がありました。熊野村は、熊野山中に祀られた熊野社から生じた地名で、熊野社に奉仕する社人たちが居住していましたが、熊野社が高岡に遷座された後、明暦元年(1655)に廃村となったそうです。
 また、大門の名の起こりも、一説に水戸田熊野社への参道の入り口にあった大門に由来するとも言われていて、今でもその参道に通じていた道を「熊野街道」といっています。このように、水戸田熊野山付近は、その昔、熊野信仰の一大聖地であったようです。
 大門町二口にある浄土真宗寺院、誓光寺の縁起にも興味深い伝承を見つけました。
 「天慶の乱で、平将門が成敗されたとき、その三女が奥羽に逃れて仏門に入り、如蔵尼となのって熊野比丘尼となった。晩年になって越中を訪れ、熊野山宮(水戸田の熊野社か)に詣でたところ、たまたま急病となり土地の民家に数ヶ月留まることとなった。その間、真言密教の教えと熊野の功徳を説いたことが縁となり、人々から請われるまま、庵を結んで定住した。その熊野比丘尼の庵が誓光寺の草創である。」
なんと、大門には平将門の三女が熊野比丘尼となって開いた寺があったのです。
「ふーむ、熊野、そして、平将門・・・。江戸の町は、分断された将門の体や武具を祀る塚や神社で守護されているという。首塚=首、神田明神=胴、築地神社=首桶、鎧明神=鎧、兜神社=兜、鳥越神社=手とばらばら事件のように。そういえば、大門町水戸田に鎧塚(よろいづか)、それから大門大橋近くに枇杷首(びわくび)なんて不思議な地名があるなぁ。もしやその平将門と関連があるのだろうか。」
「すると、高岡でポピュラーな鎧塚商店さんの熊野納豆も高岡熊野結界ミステリーのひとつとなりうるのか・・・? の、わけないか。(地元の人しかわからない)」
以下、ずらりと地元の熊野社をあげてみました。これらの熊野社はひょっとして二等辺三角形の関係に配置されているのでしょうか。お時間のある方はぜひ、タウン地図で拾って試してみてください。ひょっとすると、熊野結界が見つかるかも。
従来、高岡御車山祭は、二上射水神社の築山神事(県指定無形民族文化財)との関連で語られることが多かったけど、大門の熊野山と高岡御車山との関連も一度、考えてみるべきではないでしょうか。
@ 高岡関野神社
富山県高岡市末広町9-56
A 先宮熊野神社
富山県高岡市熊野町2-11
B 熊野社
富山県高岡市横田町
C 極楽寺
富山県高岡市博労町3-22
D 中川熊野神社
富山県高岡市中川本町7-3
E 熊野社
富山県高岡市古定塚
F 二口熊野神社
富山県射水郡大門町二口1976
G 熊野山密蔵寺
富山県射水郡大門町水戸田
 それから、高岡御車山にかかわるミステリーをもういくつか。
二番町曳山の烏が止まっている鳥居の篇額には、金文字で「宝庫」。鳥居の背後には大きな千枚分銅となんとも縁起のよいデコレーション。カラス公害に悩む東京都の人には、まったく理解できないでしょうが、烏は勝利のシンボルだそうです。
 「頼むぞカラス、今年は高岡観光元年だ。高岡を勝利に導いてくれ。」
 地元経済振興の願掛けにはもってこいという感じでしょ。
 ところで、この「宝庫」の意味ですが、「めでたい宝の蔵」という意味のほかに「豊公」つまり「太閤豊臣秀吉」の意味があるのではないかとの説が、古くから地元にあります。  
 秀吉の貯めこんだ莫大な金で千枚分銅を初めて作ったのは太閤秀吉の息子秀頼、方広寺大仏の再建資金にあてるためだったという。それで千枚分銅は秀吉の遺業を象徴するものではないかと。また、二番町の矛留の「桐」も豊臣の家紋に由来するのではないか・・・・。
 前回、前々回でもお話したとおり、関が原合戦以前の前田家は豊臣家筆頭の重臣であり、豊臣秀吉と前田利家とは固い信頼関係で結ばれていました。それに、周知のように高岡御車山は豊臣秀吉から下賜されたという興味深い伝承を持ちます。「豊公」では、徳川幕府の手前都合が悪いので、「宝庫」と当て字したのではないかと言われており、高岡では、開町以来、約400年間にもわたってこの「宝庫」の篇額を毎年曳きまわしているのです。
 そして、先にお話した大門町水戸田熊野山の背後には、「太閤山」という山があります。今は、太閤山ランドという大型レジャー施設や太閤山カントリーなんていうゴルフ場となっていますが、この「太閤山」は、戦国時代、越中攻めの豊臣秀吉がこの山に陣を設けたことに由来する秀吉ゆかりの地名。その秀吉が陣を張った場所と高岡関野神社のルーツともいうべき水戸田熊野山が隣接しているなんて、単なる偶然なのでしょうか。
 太閤山−水戸田熊野山−二口熊野神社―高岡城の鎮守熊野社―高岡御車山祭りと線がつながりそうじゃありませんか。これも、高岡熊野結界ミステリーだろうか?
@ 高岡関野神社
A 先宮熊野神社
B 横田町熊野社
C 極楽寺
D 中川熊野神社
E 中川町の熊野神社
F 大門二口熊野神社
G 大門町二口誓光寺
H 大門水戸田熊野山
I 太閤山
J 高岡城
K 瑞龍寺
L 前田墓所
M 鎧塚
N 琵琶首
 さぁ、ミステリーばっかり言ってないで、現実に戻りましょう。

 今回の懸賞クイズは、ヤマゲンだし入り米こうじ味噌750gカップ詰め・赤だし味噌750gカップ詰めの2個セットを20名の方にプレゼントです。米こうじ味噌・赤だし味噌の風味をそれぞれに楽しんでいただくもよし、2種類の味噌をブレンドしてあなただけの合わせ味噌の味を味わっていただくもよし。応募期日は6月30日まで。多数のご応募をお待ちしています。
 では、連載を続けております古城万華鏡、今回も話をすすめていきたいと思います。
 利長は父利家とともに、加賀藩の城のみならず、加賀藩領の外でも多くの天下普請に関った築城経験豊富な武将のひとり。そして、前田家の家臣団には、築城のエキスパートが居並んでおり、前田家の築城を支えていたのです。今回は、前田利長が関った築城を中心に、当時の前田家の築城技術がいかほどのものであったのか考えてみたいと思います。そして、高岡城は利長が手がけた築城の集大成ともいうべき大事業でした。
 利長の築城経歴を振り返ることで幻の高岡城の姿をおぼろげにでも予測できたらよいと思います。今回も最後まで、宜しくお願いします。

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