富山城も高山右近の縄張りか?
加賀藩士の富田景周が文化2年(1805年)にまとめた「越登賀三州志」には
 「この時(慶長10年)大にこの城を改造経営ありて遷りたまふ」
 すなわち、「利長は、富山城を大修築した後に入城した」とあります。現在、江戸時代の富山城の姿を伝える絵図がいくつか伝えられていますが、その絵図に画がかれている郭輪の配置や堀・土塁の様子は、利長の大修築の時代からのものと考えられているのです。
 また、この富田景州の同書には、
「或る説にこの時縄張を高山南坊に命ずるか、金城の三の丸台高岡城の縄に似ると云う」と補足があり、なんと富山城の縄張も高山右近が行った可能性があることを示唆しています。
安政年間 富山城絵図
高岡古城 掲示版より
 あまり、知られていないことながら、「富山城も高山右近に設計を命じたのか。金沢城・高岡城と設計が似ているという説がある」いう富田景周の記述には興味をひかれます。
しかし、「縄が似る」(設計が似ている)といわれても、正直いってどこが似ている
高槻城 掲示版より
のか・・・。確かに、お濠の面積が広いことなどは共通点のよう。でも、似ているといわれれば似ているし、似ていないと言われれば似ていない。どこが、設計の類似点なのでしょうか。そして、高山右近が城主であった高槻城の設計とも類似点はあるのでしょうか。わかる方がおられれば、ぜひ教えて下さい。この長兵衛には、わかんない。
城郭の形というのは、時代を経て改造や修築が重ねられ変遷します。また、金沢城も富山城も高槻城も、高山右近の時代以前からの既存の城郭をベースに、リフォーム的な発想で設計を行うのですから、自ずと先行する城郭の形からの拘束を受けます。富山城の場合ですと、神保時代・佐々時代の城郭の影響を受けながら利長時代の城郭が築かれたわけです。
 そのような事情から、高山右近が縄張りをしたと伝えられる城郭どうしを比較して、そこに高山右近の設計の特徴とは何かを見出すというのは、極めて難しい。
 その点、「関野」という新たな土地に高山右近が一から設計図,の線を引いたといわれる高岡城は、最もストレートに右近の縄張の個性が発揮された城として貴重な城郭遺跡といえるのでしょう。
慶長14年の富山城大火によって城を失い、魚津の仮城に避難した利長は、「富山は、立山おろしの強風のため火災に弱い」との判断から富山城を再建せず、かつて13年間城主をつとめた守山城と近い土地、関野ケ原(高岡)を選んで新城の造営を決断します。
 やはり、利長公も高岡のほうが住みやすかったと見えますね・・・・。
 富山の方には悪いけど。

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