利長、守成の兵法
 利長の亡くなった、この年慶長19年(1614)の10月に大坂冬の陣が、そして翌年の元和元年(1615)5月に大坂夏の陣が起こります。三代藩主前田利常率いる前田軍は、徳川方として大坂に参陣。利常にとってはこれが初陣であったそうです。1万2千という大兵力を率いて出陣した利常でしたが、真田幸村が護衛する大坂城真田丸の攻撃では、戦略の未熟から大きな損害を出しまいます。しかし、夏の陣では3200の首級を上げる軍功を立て、加賀藩の面目を守ることが出来ました。
 前田利常は、前田利家が文禄の役で肥前名護屋にあった時に、側室千世保との間になした子だといわれています。奇しくも、豊臣秀頼もまた秀吉が肥前名護屋滞在のおりに、側室淀との間に授かった子だそうです。ともに文禄2年(1593)の、秀頼は8月に利常は11月にこの世に生れ落ちました。そして、秀頼の正妻・千姫と、利常の正妻・珠姫は、ともに徳川家の娘であり、秀頼と利常とは義兄弟でもあったわけです。
周知のように、この戦で豊臣方は敗北。難攻不落といわれた大坂城は落ち、淀君と秀頼は自害。豊臣家は滅亡しました。大坂の陣のときに利常と秀頼は22歳。大坂の陣を境としたこのふたりの若者の、運命の明暗もまた鮮烈です。
 「瑞龍公世家」は次のように書き記しています。  
  「・・・徳川家の覇権が、果たして関が原合戦の一戦をもってなされたものであるのか否かは、必ずしも釈然としない。利長公が意を決して徳川に援軍したことで、戦さの東西の勝敗は定まって、政治は安定し、民は苦しみから救われ、戦乱は終焉した。その功績はまことに大きかったといえる。関が原合戦の後、徳川家と豊臣家が対峙すること10年。利長公が死去するに及んで、この二氏は初めて刃を交えるところとなった。そして、豊臣家が滅んだ。まさに滅びようとする豊臣家が10年間保ちえたのは、利長公の徳望のためにほかならない。利長公が成し遂げようとしたのは、世の安寧を守ること、そのことに始まりそのことに終わったといえる。それが、利長公の守成の善というものであろう。・・・」
 前田利長が、徳川方につくことで東西の力関係は、はっきりとし、関が原の戦乱は泥沼化することなく終息した。なるほど・・。関が原合戦を終わらせたのは、関が原に行かず、徳川に味方する姿勢だけをはっきり示した、前田軍の功績と言えるのかも知れませんね。
 そして、弱体化した豊臣家が、関が原合戦からさらに10年間存続し得たのも、前田利長という存在があったればこそ。
 この10年間はただ飴をのばすが如くの10年間ではありません。それは、後に270年続く徳川の安定政権の準備のためには、不可欠な「冷戦期」。その期間に、徳川幕府が誕生し、幕府によって「武家諸法度」「「禁中並公家諸法度」「キリシタン禁教令」が成され、大名の参勤交代制が始まり、幕藩体制の基礎が築かれました。その「冷戦期」の平衡性を陰で支えたのは前田利長でした。
 「敵を知り、我を知り、我より勝るものには決して挑まない。それが民に恵みをもたらすことになる」というのが利長独特の「守成」の兵法であったようです。一生をかけて平和主義を貫いた無双稀なる戦国武将、それが高岡の開祖前田利長でした・・・。
 こう、話してしまうと、何だかもうお話することもなくなってしまったような気もするなぁ。殿様自慢も充分に語った。
 でもクイズの答えはまだ出ていない。
 長兵衛のお話は、まだ続くのです・・・。

加賀八家とその祖(数字は五代藩主網紀の頃の封石高 単位:万石)
本多家
5.0
本多正重 奥村本家
1.3
奥村永福
長家
3.3
長連龍 奥村分家
1.2
奥村易英
(永福の子)
横山家
3.0
横山長隆
(長知の父)
前田土佐守家
1.1
前田直之
(利政の子)
村井家
1.65
  前田長種家
1.8
前田長種
加賀藩の家老たちは、大名級の高禄を食んでいた
      前田利長を中心とした、徳川家・豊臣家との関係(人物に省略があります)
利家には、正室まつとの間に二男十女、側室との間に四男三女があったという。利長には、高岡に満姫という子がひとりあった。利常と五人の女子を養子とした。
利家の長男が利長。次男が利政、三男が知好、四男が利常。利常は側室の子であり、四男でありながら大抜擢で三代目藩主となる。五男の利孝は、後に関東上野、七日市藩の藩主となる。
幸は利家とまつの長女で、家臣前田長種と結婚。守山城の城代であった夫とともに利常の養育をする。
しょうは、利家とまつとの次女で、家臣中川光重と結婚。増山城にいたので増山殿という。
麻阿は利家とまつの三女で秀吉の側室。聚楽第の天守閣に住み加賀殿と呼ばれた。
豪は利家とまつの四女で、秀吉の養女となる。豊臣家五大老のひとり宇喜多秀家に嫁ぐが、関が原合戦に秀家がやぶれ八丈島配流となった後は、加賀前田家に戻る。利長の頃から明治にいたるまで、加賀藩は八丈島に米や塩などを送る慣習であった。秀家と豪の子は利長の養女となる。
千世は利家とまつの七女。豊臣秀吉のすすめで、細川忠興とガラシャの長男、忠隆に嫁ぐ。関が原合戦の頃に忠興は忠隆を勘当。千世は離縁して前田家に戻り、後に加賀藩家臣村井長次と再婚。母まつの最愛の娘であったという。
利常の子どもは正室珠姫との間に三男五女をもうけた。長男光高は四代藩主、次男利次は富山初代藩主、三男利治は大聖寺初代藩主となる。長女鶴姫は徳川秀忠の養女、三女満姫は徳川家光の養女となる。また、藩主光高は、水戸徳川家から家光の養女となった糸姫と結婚。徳川家との姻戚関係を深めた。四女の富子は、皇室八条宮智忠親王の妃となる。

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