利長と関が原合戦
 以上の一連の騒動を「加賀藩、慶長の危機」といいます。この1件で、利長と加賀藩家中は、天下が既に徳川家康の掌中にあること、もはや徳川家と前田家は互角にないことを思い知ったのです。豊臣家の五大老体制は過去のものでした。
 この「慶長の危機」を際しての、利長の行動を優柔不断と評価するか、平和主義=守成の功と評価するかは、人それぞれでしょう。
ただ、利長は決して気弱で臆病な性格ではなかったらしく、若いころには逆に、気性の激しい人であったようです。慶長3年(1598)6月の頃のある宴席でのこと、利長と伊達政宗とが口論となり、腹を立てた利長は独眼竜政宗の肩から胸に、盃の酒をぶっかけたというエピソートがあります。この話を聞いた父利家は、雷を落とすどころか
 「若い頃は、我にも似たようなことが幾度もあった。だから、利長の気持ちはよくよくわかるぞ。」
と、豪胆に笑ったそうです。
 これには、村井又兵衛ら側近たちも驚き、
「おい聞いたか。親父様の今の申され様はどうだ。」
とおおいに笑ったとか。仙台の方には悪いですが、なかなか胸のすくお話。
 しかし、そんな父譲りの気性の激しさは前田家を率いる長という立場上、すっかり形を潜め、利長の性格は、慎重・深慮型へと変わっていったようです。特に、徳川家への対処は常に慎重でした。そして、徳川家との和睦は、利長の一貫した態度であったと言えます。
 秀吉の死後、権力を思いのままに振るうようになっていた徳川家康。その家康が「大名は勝手に、縁組をしてはならない」という豊臣家の掟を破り、伊達政宗・福島正之・蜂須賀至鎮との間に勝手に縁組を成立させたことに対し、慶長4年(1599)正月、前田家をはじめとする四人の大老と五奉行が家康を責めるという事件がありました。そして、徳川派と前田派との対立が非常に逼迫し、いつ戦さが始まってもおかしくない状況になったのです。
 この時の徳川家康と前田利家との和解に尽力したのは、加藤清正・細川忠興・浅野長政そして前田利長でした。
また、徳川家康と前田利家の対立が深まる中、
金沢城櫓
 「家康が前田家を訪問した時、家臣たちは事前に 武装を整え家康一行の到着を待ったが、利長が武装を全て解除させた。」
 「利長の弟、利政には家康殺害の意思があり、父利家はこれを黙認していた。しかし、利長が説得し家康殺害を未然に阻止した」
など、利長の姿勢を伝える逸話がいくつか残されています。
 一方、利長は、徳川家との和睦策を講じるだけでなく、慶長4年に高山右近をもって、金沢城内惣構堀の大修築を行い加賀藩本城の攻防の強化を図るなど、有事の際の防衛対策をも進めていたのです。
 こうした軋轢の続く中、ついに、上杉勝景の挑発的態度に腹をたてた徳川家康が上杉討伐を決定。兵を挙げます。それは、ちょうど芳春院まつが江戸に到着した6月6日のこと。
 徳川方の大名たちは、家康の号令に従い兵を集めて江戸に結集。家康自身も6月16日、大坂城を出陣して江戸に向いました。石田三成は、家康が上方を去った間隙を衝いて挙兵を決意。毛利輝元を担ぎ出して総大将とし、反徳川勢力=西軍を結集しました。
 西軍の挙兵を知った家康は、上杉討伐を中止して、上方へと引き返し西軍との決戦に挑みます。関が原合戦の幕開けです。
 慶長5年(1600)の7月、毛利輝元・宇喜多秀家から強く勧誘を受けた前田家でしたが、それには応じず徳川方として旗揚げ。上方で挙兵した石田三成方についた山口氏の大聖寺城を落城させ、西に向って進みながらも引き返し、小松の浅井畷の戦いを経て金沢に戻りました。
 また、利長の弟で能登21万石の領していた前田利政は、妻の籍(蒲生氏郷の娘)を石田三成側の人質に取られていたことから出兵をかたくなに拒否しました。結局、加賀前田の軍勢が関が原に参陣することはなかったのです。
しかし、関が原合戦の戦後処理では、出兵を拒否した利政が家康の嫌気を買って、能登領を改易されるという処罰はあったものの、結果加賀藩は、利政の能登領や山口氏の旧領を含む、加賀・越中・能登の120万石を徳川家康により安堵されました。

 豊臣政権下の重臣「五大老」の中で関が原合戦後に、滅亡・減封・転封とならず、旧領をそのまま安堵され、おまけに加増という優遇を受けたのは、徳川家康を除いて、前田利長ただひとりです。領地を没収され八丈島流刑となった哀れな宇喜田秀家や、112万から35万石に転落した毛利輝元、120万石から35万石に減封された上杉景勝とは好対照を成しています。
 関が原合戦で西軍についた大名たちの運命は惨憺たるものでした。斬首刑となった石田三成・小西行長らの処罰を始め、西軍大名には、領土没収・転封・減封の罰則が。押収された領地は約632万4千石にのぼったそうです。この合戦を経て大名の支配地図はガラリとその様相を変えることになりました。
三代藩主 前田利常
 そんな中、加賀藩では、前田利常(利家の四男)を家督後継者に立てて利長の養子とし、徳川家の娘珠姫との結婚を約しました。そして、ここに、120万石を有する徳川家の大大名としての加賀藩前田家が誕生したのです。
 ちなみに、家康自身は、250万石から400万石に飛躍。他の追随を許さぬ最大最強の大名となりました。
 「加賀征伐」を目前にした、いわゆる「慶長の危機」をぎりぎりのところで回避し、関が原合戦後は徳川家の大大名の座へと浮上する前田家。この時の加賀前田家のアクロバット的処世術、あまりに見事すぎて驚嘆するばかりです。

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