利長の母まつ、江戸に下る
利家の正妻芳春院まつ
 平和的な解決ではありますが、「まつの人質」を承諾することは、前田家にとって徳川家への完全なる屈服を意味します。藩内にはこれに強く反対する者もありました。利長自身も母の江戸行きを躊躇したそうです。
 その時「侍は、家が第一。私はもう年をとっているし覚悟は出来ている。この母を思うあまり家を潰すようなことがあってはならない。母を捨てよ。」とまつが諭したことは、大河ドラマ「利家とまつ」でも取上げられていましたね。芳春院まつの健気さに家中のもの皆が胸打たれ感涙したとか。さすがは、加賀のゴッドマザーです。
 この芳春院まつの江戸行きに眷属して、村井又兵衛長頼ら前田家古参の家臣数名が人質として江戸に下りました。村井又兵衛は、一番早くに前田利家の家臣となった人物。大河ドラマでは的場浩司さんが役を演じていましたね。前田利家が一時織田信長の勘気を買い、浪人の身となった時も離れずに従った忠臣です。利家とともに戦場を駆け巡った勇猛な武士で、前田家の中でも軍功著しいことで知られていました。彼は、利家の「又左衛門」から「又」をもらって「又兵衛」と名乗っていたそうです。
 慶長5年(1600)の5月6日に加賀を発った村井又兵衛は伏見に滞在していた芳春院まつと合流、5月20日(17日とも)に伏見を発って浜松を経由し6月6日に江戸に入りました。村井又兵衛は、江戸で徳川家と前田家との間の連絡役として腐心を重ね、慶長10年(1605)江戸でその生涯を閉じました。(村井家も「加賀八家」のひとつ。)
 最近、まつがこの江戸行きの時に書き記したものだという道中日記、『東路記(あずまじのき)』が発見され話題を呼んでいます。
 その中で芳春院まつは、
 「いはんや、君の御ため、世のため、又は子を思ふ心の闇には、何をか思ひわきまへて 侍らんとて、やすやすと思ひ立ちぬ」と江戸行きの動機を三つを挙げています。
 一番目に「秀頼(あるいは天皇?)のため」、二番目に「世の太平のため」、三番目に「子を思ふ心の闇」を払拭するため、意を決して江戸に下るのだと。
 「子を思ふ心の闇」とは、豊臣・徳川のはざまに立ち重責を背負うこととなった利長や利政、そして豊臣家の恩顧で他家に嫁いだ娘たち、わが子のことを思う母としての鬱々とした不安でしょう。やはり何と言っても、これがまつの本音でしょうね。
 「家のために母を棄てよ」と気丈に振舞いながら、実はわが子を守りたい一心から江戸に赴いたのです。「自分が人質となれば、子は救われる」と。まつも、世の母たちと何ら変わらぬ人情の人だった。「心の闇」としたところは、そのような人並みの人情に突き動かされる自分に、何らかの卑下を感じていたからなのでしょうか。
 また、まつには、村井又兵衛の長男村井長次に嫁いだ娘千世がありましたが、まつは村井長次宛に、次のような書簡を送っています。
 「子どもに会いたい。お父上(村井又兵衛)とともに、お千世を江戸に出して下さらぬか。しかし、これは高岡(前田利長)の気持ち次第のことですから、(利長が)無用なことだというのなら、仕方のないこと。」
 まつは、利長に遠慮しながら、お千世に会いたいとお婿さんの村井長次に伝えています。江戸と加賀とを往復し連絡係りをつとめる又兵衛に伴って、簡単な旅支度をさせ、お千世を江戸に下してほしいと。
 家康はまつをとても丁重に処遇してくれたようですが、やはり、まつにとって江戸での人質生活は、寂しいものだったのでしょう。せめて一度子どもの顔が見たい。痛ましい気がします。
 徳川幕府は、諸大名の妻子を人質として江戸に居住させ、大名の参勤交代を義務付けました。大名たちは、江戸に居住するための屋敷地を幕府から拝領し江戸屋敷を構えるようになります。江戸屋敷は、邸宅というだけでなく、藩の江戸役所としての機能をも持ちました。 まつは、その後慣例となる大名の妻子の人質第一号です。
 まつが江戸に滞在した頃は、どんなところに住んでいたのでしょうか。
 金沢市図書館のホームページには、
「加賀藩の江戸藩邸は、慶長10年(1605)、3代藩主前田利常が家康より和田倉門外の辰口に屋敷を賜ったのが始まり。 これより前、慶長5年(1600)以来、芳春院が人質として江戸に在ったが、その時代の邸宅の所在ははっきりしない。 元和2〜3年(1617〜8)頃には、本郷に屋敷地を拝領してこれを下屋敷とし、辰口邸を上屋敷と定めている。 その後、明暦3年(1657)・天和2年(1682)の大火による焼失、及び拝領・上地(拝領した土地を幕府へ返上すること)を経て、天和3年(1863)には、本郷邸が上屋敷、駒込邸が中屋敷、平尾邸が下屋敷と定められた。」とあります。
 「三壷聞書」は、前田利家が伏見の豊臣秀次屋敷を太閤秀吉より拝領し、江戸に移し、慶長10年に前田利常がこれを江戸に建てたといい、「三州志」もまた、伏見の秀次遺館は江戸邸に移築したとしていることと合わせて興味深いことです。江戸藩邸も高岡城と同様に、伏見秀次遺館の移築伝説を持っているとは、これ如何に。  
東京大学赤門は、本郷加賀藩上屋敷跡(重要文化財)。文政10年(1827)加賀藩主前田斎泰に嫁いだ11代将軍徳川家斉の息女溶姫のために建てられた朱塗りの御守殿門。当時は三位以上の大名は朱塗りの門を作るのが慣わしであった。軒瓦には加賀藩の梅鉢紋。まつが江戸に滞在した慶長年間には、まだ本郷の地に加賀藩の屋敷はなかったそうだ。
安藤広重が描いた加賀藩屋敷

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