追記 神保氏張
 神保氏張(じんぼ うじはる)という武将の名を聞いたことがありますか。ほとんどの人は知らないと思いますが、あのテレビゲーム『信長の野望 天下創生』にも登場する武将なんですよ。歴史ゲームマニアや戦国武将おたくの方ならば、あるいはご存知でしょうか。   
 「古城万華鏡T」の守山城のところで少し触れましたが、神保氏張は戦国時代に二上山の守山城の城主だった武将です。天正4年(1576)に上杉謙信に攻められ守山城は落城。いったん、守山城を去った氏張でしたが、天正6年に謙信が病没すると、氏張は越中を制圧した佐々成政に従い守山城主に返り咲きました。人生いろいろですね。しかし、天正13年(1586)、佐々成政が豊臣秀吉に降伏すると守山城は前田利長の居城となります。再度、守山城を追われた神保氏張は、佐々成政に従って熊本に行き、肥後の国人一揆でも戦ったそうです。そして、成政切腹の後は、なんと徳川家康の旗本となって生き残りました。本当に、人生いろいろです。ここにもひとり、戦国時代の荒波の中を懸命に生き抜いた武将の姿があったのですねぇ。
 ちなみに、現在の東京神田の神保町は神保氏張の子孫の神保氏の武家屋敷があったところ。これ、高岡の者にとっては、ちょっとうれしいトリビア話です。
 神保町は出版社と古書店の街として有名ですね。長兵衛は、先日、東京に行く機会がありましたので、神保町の地下鉄駅に降り立ち、上掲の写真を撮ったというわけです。この看板にカメラを向ける人なんてあまりいないだろうなぁ・・・。
 高岡の千保川には神保氏張の名を取った「神保橋」が架かっています。東京都神田区神保町にお住まいの方、宜しかったら高岡の神保橋の写真を撮りに来てください。そして、町のルーツに触れてみましょう。高岡鋳物で作った立派なネームプレートが、あなたを待っていますよ。神田では「じんぼう」ですが、高岡では「じんぼ」というのですね。
と、言ったって来る人いないだろうな・・。

追記
 この「神保氏張」を書いた後、私に誤解のあったことが分かりました。
 高岡中央図書館の晒谷副館長さんの現地調査「神保氏の末裔ー氏張子孫の江戸旗本屋敷を探るー」によれば、神田神保町の由来は、江戸時代に幕臣の神保長治の屋敷があり、その屋敷に至る小路を神保小路と称していたことにあるそうで、神保長治は、越中神保氏の末裔ではあるが、氏張の直系子孫ではないとのこと。神保氏張の直系子孫の旗本屋敷は、江戸「裏二番町」、現在の千代田区一番町公務員アパートの広い敷地、京漆器象彦といきいきブラザ一番館の間にあたるそうです。
 トリビア度は少し下がってしまった感じでしたが、奇しくも「麹町」とほど近い土地に神保氏張子孫が居住したことに、長兵衛、ひとりじんわりとトリビアを感じています。

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