追記 佐々成政
富山市郷土博物館所蔵 『富山城雪解清水 信越境更々越』 豊原国周筆
佐々陸奥守成政之像
古川雪嶺筆
富山市郷土博物館所蔵
 賎ケ岳の戦いで柴田勝家が滅びると前田家は、豊臣秀吉方に寝返り、越中との国境に砦を築きました。また、越後の上杉謙信も豊臣家と和睦。佐々成政は前後を上杉・前田にはさまれ孤立する格好となりました。成政は徳川家康・織田信雄(のぶかつ)と結び、小牧・長久手の戦いで秀吉に対抗します。ところが、秀吉と織田信雄との間で突然和議が成立。そんな天正12年(1584)の厳冬、佐々成政とその家臣は、徳川家康の秀吉討伐を要請するため、決死の覚悟で雪山越えを断行。猛吹雪や雪崩に遭遇しながら立山ざらざら峠を越えて、信州を南下し駿府に至って徳川家康に面会しました。成政は家康に秀吉との決戦を強く促しましたが、秀吉と織田信雄との和睦により、もはや秀吉討伐の大義名分を失った家康は成政の勧誘を拒みました。佐々成政は、時勢を読めていなかった。帰途につく佐々の一行の落胆はどれほどであったことか・・・。万策つきた成政は、越中に帰ると一戦交えることなく、頭髪をそり僧形となった姿で秀吉に降伏したのです。この時 秀吉は「成政ごときを降参させるに太刀も刀もいらぬわい」と豪語したとか。
 この壮大な雪山走行の物語、「ざらざら越え」は明治時代につくられた歌舞伎「富山城雪解清水」の題材となり人気を博しました。また、富山売薬の土産用版画にもその題材が用いられました。佐々成政は、その後九州の熊本に移封となりましたが、熊本での知行に失敗したとの理由で改易となり、摂津尼崎で自刃させられました。
 豊臣秀吉・前田利家・佐々成政は、そろって尾張名古屋の出身。人生いろいろと申しますが、この三人の同郷人の人生、まさに三人三様です。もし、織田信雄が豊臣秀吉と和睦せず、佐々成政の交渉に徳川家康が諾していたら、その後の越中の支配は全く異なるものになっていたのかも知れませんね。そして、秀吉や利家・利長の人生も大きく変わっていたことでしょう。
前田利家
利長
前田城跡・名古屋市中川区前田西町一丁目の速念寺
荒子城跡・名古屋市中川区荒子三丁目の富士権現社付近
まつ
愛知県海部郡七宝町沖の島
豊臣秀吉
名古屋市中村区中村公園
名古屋市中村区中村中町弥助屋敷
佐々成政
比良城跡・名古屋市西区比良三丁目の光通寺付近
 佐々成政の越中支配は、わずか七年間に過ぎないものでしたが、城下町を整備し、常願寺川に佐々堤を築いて治水事業を行い、また、地場産業の保護育成を図るなどの功績を残しました。敗北の運命にあった成政ですが、富山の人々にとっては忘れがたい武将なのです。

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