利長公は、晴れ男
 高岡築城普請が推し進められる間、利長は幾度となく魚津と高岡とを往復し現場の視察をしたことでしょう。その場合、利長は海路を利用したのではないかと私は思っています。魚津湊から富山湾を伏木湊へ。そして、木町へ。 
 『三壷記』の「瑞龍院の御噂の事」には次のような一文があります。
 「これは、利長公に長く奉公したものから聞いた話である。この殿様はとても短気で、物事自分の思いどおりにならなければ埒のあかない人だった。しかし、臣下のもめごとの判定で「けんかは両成敗。どちらも悪い。」
とおっしゃる大御所様(前田利家)とは違い、この殿は、正しいと判断さたならば身分などはお構いなく肩をもってくださるところがあり、武勇正しき者を取り立てて下さった。また、下々の言い分にも分けへだてなく耳を傾けてくださる方だった。・・・不思議な事に、殿が船に乗られる時にはいつでも、如何なる難風が吹いていようと、殿の船が漕ぎ出したとたん、直ちに順風に変わってしまうのだった。それを見ていた旅人などは、驚いて、『これは、肥前様風だ』といって殿を仰ぎ見ていた。なんとも不思議なことである。」
 利長の一本気な気性と、爽やかな「利長裁き」を物語った後に、とても面白いエピソードを紹介していますね。それによると、利長は驚異的な晴れ男であったとみえ、如何なる悪天候で船旅が危ぶまれる時でも、利長の船が出航したとたんに、好天となり順風が吹き始めるというのです。その順風を「肥前様風」と名づける者もあったというから、楽しくなってしまいます。
 そして高岡城に引越しされる時も、陸路をたどる家臣団とは別に、自らの船の帆に「肥前様風」をはらませて、順風満帆、富山湾を航行してこられたのではじゃないかと、私は勝手に想像しているのです。
 利長公は、文禄の役の時、朝鮮半島に渡るための軍艦製造にも携わったといいますから、高度な造船技術を持った技能者集団を抱えていたのでしょう。朱印船貿易の時代の、海洋王としての利長の姿もまた思い描いてみたいものです。
加賀藩の海運史は江戸時代を通して華々しく展開し、「陸に上って百万石、海に出ても百万石。」といわれたほどでした。その海運国加賀藩の萌芽は、利長の「肥前様風」の帆にあったのではないでしょうか。

 増山安太郎の『高岡古城志』を引用しましょう、
「慶長14年9月13日、これこそ利長卿一生にとっての思い出の日であり、高岡にとっても永久忘れることのできない記念日である。加越能120万石の大御所、越中中納言従三位羽柴肥前守利長が、この春以来日待ちにしていた高岡の新城成って、秋の晴れが増しき移徒(いし=引越し)をした日である。この日早朝 魚津の仮居を出立し、五百の将士を率い、幾十輿の女乗物、幾百駄の輸送隊を従えて、肥馬にまたがり、夕日かがやく頃、鳳凰鳴く新城に入ったのであった。」
 昭和初期の郷土史家増山の描いた、利長入城の風景です。人それぞれに、思い描く利長入城の姿があります。
 高岡の次世代を引き継ぐ子どもたちにも、夢を持って利長入城の姿を思い描いてもらいたいものだと思います。

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