舟橋を渡って引越し
 わざと申し入れ候。よって、我々来る二十五日より同二十九日までの間に越し申すべく候間、最前申し付け候ごとく、釣り輿とも借りたく候間、内々申し付けられ候て、輿舁(か)きまで添え申し候て、申すべく候。
 移徒(わたまし)の時分は、大河には舟数申し付け、小河には舟橋を当座申し付けたく候。かしく。
 八月五日
伯耆(松平康定)/図書(神尾之直)    
羽肥(羽柴肥前守=前田利長)

 前田利長が慶長14年(1609)8月5日に、家臣の松平伯耆と神尾図書に宛ててだした書状です。「高岡城への引越しの時に乗る御輿の準備を早くせよ」と言った後に、「引越しの時には、大河川には渡し舟をたくさん用意し、小河川には舟橋をかけて当座の準備とせよ。」と言っています。越中には、河川が多いですから、利長がわざわざ河川を渡る方法について指示を加えたのも無理のないことです。
高岡関野神社本堂から鳥居そして大法寺を見る
 利長公の引越は、五百人余りの家臣団に加え、調度品や家財類の輸送隊そして女たちの乗る御輿を含む大行列でした。その高岡城への引越行列は、魚津を発して常願寺川・神通川・庄川を越えなければなりません。
書状から察するに、大河川は舟で渡ったようです。神通川ではどうだったのでしょうか。北陸道を高岡へ向ったならば、舟渡しを利用するより富山城近くにあった神通川の舟橋を渡ったのでは。高岡城に入る前田利長の雅な大名行列が北陸道を長々と続き、風光明媚と歌われた神通川の舟橋をゆるりゆるりと渡る様子は、さぞやみごとであったと思います。庄川や常願寺川は、どのようにし渡ったものか。興味あるところです。
 高岡の新城へは、魚津からのみならず、金沢からの行列もあったでしょう。
奥方永姫や女官たちは、高岡築城の間、魚津ではなく金沢城におられたとも言いますから、むしろ金沢からの行列のほうが、きらびやかで見応えがあったかもしれませんね。
 高岡の古老に聞いた話では、「小竹藪」には、かつて高岡城の後宮=大奥があったとか。利長公は本丸から、跳ね橋(今の重陽橋)を渡って、この大奥へと向われたそうな。この小竹藪大奥の住人たち、永姫をはじめとする雅な女たちの行列も壮大なものだったと思います。
 金沢からの行列は、倶利伽羅峠を越えて北陸道を高岡へと向かい横田町へ。長さ450メートルの川幅の千保川を、舟橋を使ってゆるりゆるりと渡り大法寺の川岸へ。そして御馬出町通のヴィスタ(見通し線)を進んで高岡町へ。
利長の一行も、大法寺地点から御馬出町ヴィスタを通って高岡町に入り、町屋・武家屋敷を進んで大手門からお城に入られたと私は想像しています。
今の私でしたら、魚津から自動車で旧八号線を富山・呉羽・小杉・大門・中川経由で信号を左折しまして高岡に入り、そのまま搦め手門か、大手門からこそこそと高岡城にいってしまうでしょうが、利長公の場合そうではなかったでしょう。
高岡城にご入城あそばす、あっぱれな殿様の姿を、城下の者たちにしっかりと見せておかねばならない。歌舞伎役者が襲名披露で行う「お練」のような効果をねらった高岡町内パレードがあったのじゃないかな。
ご入城の行列は、ただの移動ではなく、町人や近隣の農民たち=観客に見せるためのものであったと思います。
(高岡御車山祭りのように!)
 千保川に浮ぶ舟橋を渡っていく大名行列の姿を想像してみると、なかなか、なかなか、絶景です。

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