高岡の軸
高岡関野神社本堂から鳥居そして大法寺を見る
 「なぜ、道標が大法寺前に立っているのか」以前から不思議に思っていましたが、この地点がかつて舟橋の着岸点であったことを知って初めてこの意味が分かりました。
 繰り返すようですが、高岡開町当時は高札場も大法寺前にありました。高札場は、舟橋の消滅と横田橋の付設による交通事情の変遷から、天明6年(1786)に大法寺前から旅籠町に移されましたが、高岡開町当時の舟橋時代には、大法寺前の御馬出町通が、高札場を備える高岡町の重要な交通ターミナルであったのです。
 そして、御馬出町通は、高岡開町時に前田利長公に眷属して高岡町に移住した「由緒町人」といわれる有力町人や医師や薬種屋たちが多く居住した高岡一の繁華な通りでした。
 正徳元年(1711)に本陣を命じられた旧家、天野屋(服部家)も、開町当時からの御馬出町通の住人です。天野屋の祖、甚吉さんは、美濃の出身で、越前府中で前田利家に仕え、後に富山町で商人となりました。前田利長の高岡築城にともなって高岡に移住、御馬出町に屋敷地を拝領し、高岡の有力町人として活躍しました。
 利長は、天野屋甚吉のような古参の者たちに営業権を与え、御用商人としてこの町に住まわせたのです。
 驚くことに、関野神社の本殿に立って、鳥居の方向を見ると、その先、真正面に大法寺前の道標が見えます。関野神社は、この道標の地点にまっすぐ向って建てられているのです。これは決して偶然などではなく、意識的に大法寺道標−御馬出町通り―鳥居―参道―祠が、一直線に並ぶように、設計されたと考えるべきでしょう。
 この祠の神様は、舟橋を渡って高岡に入ってくる人を、関野の高台からまっすぐに見下ろすように鎮座していたのです。
 人間の側からいえば、北陸街道を有磯正八幡宮の前で折れ、千保川にかかる壮大なる舟橋を渡って高岡に入る。すると、まっすぐ伸びる御馬出町通の繁華な町並の向こうの高台に高岡の鎮守様が神々しくも祀られている。そして、さらにその奥には大門水戸田の熊野山が見え、さらにその遠景には、万年雪の衣を着た霊峰立山がそびえたっている。そんな見通し線が、演出されていたのです。開町当時、高岡町を訪れた人は、新たに創出されたこの都市景観に驚嘆したでしょうね。当時このような景観は、近隣の農村や宿場町にはもちろん、金沢にも見当たらないものでした。
文政11年(1828)に石黒信由が書いた高岡地図(高樹文庫蔵)に舟橋
と御馬出町見通し線・守山町木舟町見通し線を書き入れてみた。
石黒の地図 では、 現在の関野神社は「熊野神社」とされてる。
@現在の
御馬出町の通り
A現在の
守山町・木舟町・小馬出町の通り
 宮元健次氏の『建築家秀吉』によれば、このような見通し線を「ヴィスタ」というそうです。前掲の写真に見るように、「見通し線・ヴィスタ」は、御馬出町の通り@を北側に折れたところに伸びる、守山町木舟町の通りAの景観にも活かされています。
 奥の奥まで見通す直線的な景観は、袋小路・T字路・カギの手・食い違いといわれるような、防衛的配慮が先行する古い形式の町割りではけっして見られない、とても斬新な町景観です。
 宮元氏は、秀吉の大阪城築城のころから、城下町づくりに取り入れられるようになったこの手法は、「ルネッサンス・バロックの時代に誕生し発展した西洋の建築様式の影響を受けるもの」だと述べています。それが、地方の城下町にも取り入れられるようになり、「近世城下町建設の定石となった」と。
 高岡城下町でも、この「ヴィスタ」の手法は、前田利長によって取り入れられました。
高岡の城下町の特色のひとつは、四角いブロックをつないだような碁盤目状の町割りと、まっすぐに伸びた貫通道路にあります。「ヴィスタ」は町のいたるところで見られるわけですが、最も代表的かつ印象的な「ヴィスタ」は御馬出町通りのそれであったといっていいでしょう。
 それは、千保川の水面に浮ぶ舟橋から始まって、高岡町独特の河岸段丘地形をうまく取り入れて、見るものも視線を斜め上へと導き、熊野神社(関野神社)から熊野山そして、ついには伸びた視線をまっすぐ立山連峰にまで連結させるという壮大な「ヴィスタ(見通し線)」。越中の首都高岡のランドマークというにふさわしい都市景観です。
 このように、高岡町に第一歩を踏み入れたと時に見ることとなるこの景観は、西洋手法が取り入れられた斬新なものでした。遠近法的な錯覚とあいまって、都市景観をより壮大な印象とするのです。これは、当時の人々にとって少なからず感動的なものであったに違いありません。
 また、大法寺と関野神社を結ぶ「軸」は、高岡の町の「聖なる軸」でもあります。と、いいますのは、高岡御車山祭りの山車の巡行で、この「軸」は大きな意味を持っているのです。この「軸」を基準に巡行が行われているといっても過言ではありません。御車山は、この「軸」の上を計五回も、通過しながら巡行を行い、最後、この「軸」の上に七基全てが一列に並びの曳別れとなるのです。
高岡御車山巡行路 (高岡市観光課ホームページより)
 高岡の都市景観において、見るもの視線を奥へ奥へと導く「見通し線」が、最も完成された形となって出現しているのは、前田利長の五十回忌(寛文3年 1663)に向けて建立された瑞龍寺です。総門・三門・仏殿・法堂を一直線上に並べた瑞龍寺の伽藍配置、前田利長墓所と瑞龍寺をつないでまっすぐにのびる八丁道では、吸い込まれるような「見通し線」を明瞭に見ることが出来ます。
 また、高岡城の 鍛冶丸―明き丸―三の丸 は、曲がったり屈折したりせず内堀に沿って一直線に並んで配置されています。これは、平城に多い「環郭式」(本丸を中心に円形または矩形状に、二の丸、三の丸と囲まれた配置。大坂城、広島城など)や「渦郭式」(かかくしき=本丸を中心として二の丸、三の丸を渦巻き状に配置。江戸城、金沢城など)とは全く異なる高岡城独自の様式と言えます。全国的にみても、他に類を見ない構造なのです。
このような極端に細長い構造をもつ、高岡城独特の郭輪配置を、西洋の造園形式の影響を受けるものだという人もいます。或いは、高岡城の縄張りをしたという高山右近の意思によるのでしょうか。
山門は、正保2年(1645)の造営
総門は、法堂・大茶堂とともに明暦2年(1656)の造営
石畳の美しい八丁道。870mにも及ぶ前田墓所への参堂。
道両脇の石灯籠は、加賀藩家臣や全国の大名たちが寄進したものだという。

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