高岡の基点
寺の格式を伝える 大法寺の土塀
  この横田の橋は、北陸道が通る交通の要所でした。金沢方面から北陸街道を来た旅人は、横田町の大木戸から入って、横田橋・横田小橋を渡り、旅篭町の大木戸をくぐるとすぐに高札場があり、必ずこの地点を経て、高岡町に入っていたのです。
そして想像するに、舟橋のあった頃には、横田町・舟橋町から長い舟橋を渡り、大法寺の横から高岡町に入ったものと思われます。
大法寺前には今も北陸街道の道標があります。「富山県里程元標 高岡」とかかれたこの道標は、高岡のゼロ地点と言われるところ。道標には「福岡弐里拾町拾六間」「大門壱里参町七間」と書かれています。
今でも、「高岡から○○まで何キロ」という場合、この地点を基準にするそうです。この地点を高岡の基点とする考えは、かつて大法寺前が舟橋の付設点だったことに由来するのではないでしょうか。開町当時は高札場もこの地点にあったとされていますし、高岡開町当時の舟橋時代には、大法寺前が重要な交通の拠点であったわけです。
 大法寺は、室町時代、享徳三年(一四五四)に日能という日蓮宗の僧が、放生津に弘通所を開いたのが起こりです。 放生津は、室町時代には守護所が置かれ越中国の政治・経済・文化の中心地でした。日能の開いた弘通所は、後に常安寺と称し、さらに大法寺と改められました。戦国時代、神保氏が没落して越中が前田家の所領となると、大法寺も多くの寺院と共に移転することになります。まず、天正年間(1573〜1591)頃に、放生津から久々湊に、次いで守山へと移転。更に、慶長3年(1598)に守山から富山へ、同14年(1609)には、高岡開町とともに富山から高岡へと引越しました。大法寺は、瑞龍寺と共に、藩主の手厚い庇護を受けた格式の高いお寺です。歴代住職には、移動の際に駕籠を使用する権限が与えられており、今もこの駕籠が大法寺に保存されています。また、大法寺は、一塔両尊像、日蓮像、鬼子母神十羅刹女像、三十番神像の長谷川等伯の筆による仏画(重要文化財)を所蔵することでも有名なお寺です。
 大法寺の位置する利屋町(とぎやまち)には、慶長年間に前田利長によって召し寄せられたという寺が大法寺のほかに3ケ寺もあり、寺院によってこの重要な交通拠点=舟橋の接岸点の防備を図ったことがうかがえます。

Copyright 2005 YAMAGEN-JOUZOU co.,ltd. All rights reserved.