利長、高岡にも舟橋をかける
現在の横田橋より千保川を見る
 富山に負けたくなくって言うわけではありませんが、高岡にだってその昔、舟橋はあったのです。『高岡史料』には、
 「高岡の町数六十有余、しかして古にありて今、これなきものあり。・・・往古舟橋町と称し、および長舟町と称せしものありしとの伝説あり」と、かつて高岡に舟橋町・長船町の地名があったことを記しています。そして、
 『右澤氏旧記』の一文をその根拠として引用しています。
「・・・高岡町は昔、関野が原と言っていた。千保川の川淵には、舟橋町という町があった。すなわち、横田町の内御宮(有磯正八幡宮)から橋までの間のことで、今の横田横町のことだ。わが右澤家はここに居住した。・・・千保川の今の横田のと
高岡市立博物館ホームページより転載
「関野之古図」
ころは、大昔のこと、急流で川幅の広い大川になっていたので、舟橋をかけていた。舟橋にはたくさん人の往来があった。小舟を百艘つないで、その金鎖を川向こうの東のほうは、大法寺の前の藤のつるのからまりついた老松の大木につないでいた。川の手前の西のほうは、川淵に大きな岩があったのでこれに巻きつけていた。その頃は、川原町から旅篭町までことごとく石の川原で、中島町は、砂の中洲であった。横田町のうち、有磯正八幡宮から今の横田橋までの間を大昔は舟橋町といい、わが先祖はそこに住んで、舟橋を管理する役人をしていたのである。・・・以下略」

 「大昔」とは、「川原町から旅篭町までことごとく石の川原で、中島町は、砂の中洲であった。」という描写から判断して、「関野之古図」に描かれる風景が広がっていた頃、高岡開町前後の時代、のことでしょう。

 『右澤氏旧記』をそのまま信用するならば、かつて千保川には、大法寺前から舟橋町=横田横町までをつなぐ舟橋が架けられていたということになります。これは、直線距離にして約450メートルにも及ぶ長さです。その頃にかけられていた高岡の千保川の舟橋は、富山の神通川の舟橋をはるかにしのぐ壮大なものであったと考えざるを得ません。
 何だか、ここでも富山に対するライバル心がむき出しとなった観がありますが、450mに及ぶ舟橋など、そりぁもう日本一の舟橋に、・・・間違いない。いや、驚きました。
 また、『高岡町由緒聞書』という古文書には、
 「長舟町 千保川の舟橋を架けさせたる舟大工、あまた居住につき町名と相成り申し候。津幡江屋新兵衛 手洗野屋彦兵衛は最初のものに御座候。」
 とあります。
 これにより、千保川の舟橋は、高岡近隣の村々から移ってきた舟大工、新兵衛・彦兵衛らによって架けられ、彼らが集団居住した町を長舟町といっていたことが分かります。長舟町は、千木屋町・下川原町(現川原町)の辺りだということです。
 この高岡の舟橋は、おそらく富山の舟橋が設置された慶長11年(1606)を前後して架けられたものでしょう。
 このような大掛かりな舟橋は、けっして自然発生的に出現するような性格ものではなく、強大な権力を持つ治世者が、その政治力をもって設置したもの。高岡においては、開祖前田利長のほかにはない。高岡開町の時代に、高岡城下町づくりの一環として、千保川の舟橋が設置されたと私は考えます。

文政11年(1828)石黒信由による作図
 千保川は高岡開町後、三代藩主前田利常によって行われた川除普請によって急速に水量が減少。それにともなってこの横田町の辺りでは、川の両脇に新たな土地が出現、中島町の中洲がその面積を広げ、千保川は、この地点で中島町を囲んで二股(千保川本流とがめ川)に分かれるようになりました。
 そして、舟橋の姿は消えて、横田橋、横田小橋のふたつの橋がかけられました。舟橋町の名前も自然消えていくこととなります。有磯正八幡宮側の千保川本流にかかる橋を横田橋、川巴良諏訪神社側のがめ川にかかる橋を横田小橋と言ったそうです。
 「不歩記」という江戸時代の古文書によれば、横田橋は長さ22間(約39.6m)幅2間(3.6m)、横田小橋は長さ30間4尺5寸(約54m)幅2間(3.6m)、の橋だったとのこと。この橋は、遅くとも「不歩記」が書かれたという寛保3年(1743)には架けられていたということになりますが、いつの時代に舟橋から架橋に変更されたのかは判然としません。
 それにしても、横田橋より横田小橋のほうが大きいとは、なんとも高岡らしいへそ曲がりなお話ですねぇ。どうして大きい方が小橋なんだぁ?
 書き誤りかと思いましたが、そうではないようです。高山彦九郎が記した『乙未の春旅』にはこのふたつの橋のことが書いてありますので、参考としましょう。
「またまた、長兵衛さん、高山彦九郎ちゃ、そっ誰け?」と言われそうですね。
 高山彦九郎のことは、関西にお住まいの方ならば京都三条京阪駅前の「どげざ像」でご存知だと思いますが、幕末期の尊皇派の義人で、全国各地を行脚して尊王思想を広めた人物。旅日記を多数残しています。この像は、高山が京都御所に向って拝しているところだそうです。「どげざ像」こと「高山彦九郎像」前は、「忠犬ハチ公」前と同様に格好の待ち合わせの場所です。
 彦九郎さんが高岡を訪れたのは、安永4年(1775)のこと。金沢方面から北陸街道を横田へ。千保川を渡って高岡に入り、旅篭町の辺りで一泊。翌日は、瑞龍寺に参拝し富山方面へと出立しました。高岡を素通りではなかった。ありがとう、彦九郎さん。
 その旅日記が『乙未の春旅』に書かれています。
「高岡入口を横田という。板橋、二十三間斗をわたる。また、三十三間のはしをわたる。ふたつとも千保川という」
 当社は安永元年に横田町でこうじ屋を始めたといっておりますから、彦九郎さん、きっと横田町の長兵衛のこうじ屋の前も通っていかれたんでしょうね。そして、最初に通った橋が二十三間(約41m)、後に通った橋が三十三間(約64m)。やはり、彦九郎さんが通った時も、川巴良諏訪神社側の横田小橋のほうが大きかった!!
正徳年間(1711〜1716)の地図の写しだという横田町の古地図。
上が横田橋、下が横田小橋。橋と橋との間が、中島町。

追記
高山彦九郎は、瑞龍寺を訪れ次のように記しています。
「町の裏、高岡山瑞龍寺、洞家(曹洞宗)なり。北口の門より入り、僧 番す。回廊を入り 庭中に大雄殿(仏殿)十間四面なり東向きなり。西回廊のつづき、牌所あり。前田氏の祖の牌所とぞ、回廊二百間という。開山廣山恕陽和尚 五百石付き足軽四人勤番なり。加州の大寺は寶圓寺天徳院大乗寺なり。庭中の大堂二重なり。東門を帰る門番は僧なり。この僧としばらく語る。本門二重の堀あり。昔前田中納言(利長)高岡に居たる事あり。今は蔵屋敷と成りてあるとなり。本門を出、右に熊野山みゆ。高岡の鎮守なり。東へ門を入り、松並木八丁入り、その道に六十基あまり石灯籠立あり。繁久寺とて洞家なり。ここに前田家の元祖の墓あり。大成石灯籠あり。
石なり。墓地に遠堀あり。墓の廻り水にて石橋あり。井垣は三十間四方の石の下段高さ二間余りその上に5間四方高さ一間余り その上二間四方高さ四尺斗 その上碑台石二つ重 碑長一丈五六尺南向きなり。蓮花などありて俗なり。五十石つく。足軽六人小者二十人 この寺につけ置き、墓の番のためなり。」
とても、細かく観察していることに驚きます。熊野山見ゆとあるのは、大門水戸田の熊野山でしょう。高岡からも見えたんですね。墓所の構造には、現在の形との少々ちがいがあり興味深いです。墓所に施されている蓮の花のレリーフを、「俗なり」と評しているのも面白いところ。高山は、あの西洋的なデザインに違和感を覚えたようです。

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