富山城で熊騒動
富山城と舟橋の模式図
富山市郷土博物館ホームページより
 少し余談となりますが、トレンディな?話題として熊のお話をひとつ。
 宝永5年(1708)、この神通川の舟橋になんと熊が出没し、おおいに富山の城下を騒がせたことがありました。神通川を泳いできたのでしょうか。
 橋番役人らが追い立てたところ、その熊はバタバタと舟橋を走り抜け、よりによって富山城の中へと突進して行ったというのです。それでますます騒動は大きくなり、富山藩は、鉄砲隊・足軽組を総動員して藩の威信をかけて熊退治を試みますが、熊のほうもなかなかのもの。鉄砲玉をくぐりぬけ、逃げるは逃げる。そこへ八尾野積村の猟師「熊突徳兵衛」なるものが召しだされ、ズドンと一発。熊をみごとに撃ち取ったのです。徳兵衛さんは殿様にほめられ褒美をもらったそうだけど、立場がないのは、鉄砲隊と足軽組。100年間の平和ぼけのせいでしょうか、彼らは熊一匹も退治できない形ばかりの軍隊となっていたのです。
 去年は、富山県で多くの熊が出没し、わたくしたち富山県民を震撼させました。テレビニュースや新聞などでご覧になった方もおられるでしょう。昔もこのような熊騒動があったのです。しかも、富山のお城の中での熊騒動とは驚きましたね。

 付録に、橘南谿著『東遊記』巻之二 (東洋文庫『東西遊記T』平凡社)に、越中富山の舟橋のことが書かれているので紹介しましょう。舟橋の様子が大変克明に記されていて参考になります。舟橋を見たときの筆者の感動が伝わってきますよ。
「福井の東に舟橋あり。越前にては名高けれども、是は越中の神通川に渡せるものに不及。 越中の神通川は富山の城下の町の真中を流る。是又甚だ大河にして、東海道の富士川抔に似たり。水上遠くして然も山深く、北国のことなれば、毎春三四月の頃に到れば雪解の水殊の外に増来たりて、例年他方の洪水のごとし。常に南風に水増り、北風に水減ず。是は南より北の海へ落つる川ゆえなり。かくのごとく毎度洪水あり、其上に急流なれば、常体の橋を懸くる事叶いがたき川なり。されば、舟橋を懸渡すこと也。先ず東西の岸に大なる柱を建てて、その柱より柱へ大なる鎖を二筋引渡し、其鎖に舟を繋ぎ、舟より舟に板を渡せり。其舟の数甚だ多くして百余艘に及べり。川幅の広き事おもいやるべし。其鎖のふとく丈夫なること、誠に目を驚かせり。鎖の真中二所程繋ぎ合わせし所ありて、其所に大なる錠をおろせり。洪水の時切る所なりと云う。両岸の柱のふときこと大仏殿の柱よりも大なり。追追にひかえの柱ありて、丈夫に構えたり。鎖につなぎて舟を浮かめたることゆえに、水かさ増るといえども、其舟次第に浮上がりて危き事なく、橋杭なきゆえ橋の損ずることなし。然れども、誠に格別の大洪水の時は此舟の足にせかれて、両方の町屋へ川水溢れのぼるゆえに、やむことなくて此鎖の中程を切ること也。其舟左右に分かれ水落つるゆえ、水かさ減ずると也。然れども、此鎖を切る時は、跡にてまた鎖を継ぐ事莫大の費用あることゆえに、格別の洪水にて町屋の溺るる程の時ならでは切る事なし。此舟橋も亦一奇観なり。もろこし黄河などにも、晋の時分、舟橋を懸けられしという事聞及べり。いかなる大河急流なりとも用いらるべき橋也。」

★橘南谿(1753〜1805)伊勢国(現久居市西鷹跡町)出身の医学者。日本で最初の解剖術に関する書物『解体運刀法』を記し、解剖は残忍で無益な行為ではなく、医学の進歩のために重要であると説いた。広く世の人々の病苦も救わねばと考え、医術修行で全国を行脚。訪れた各地での体験を記した「西遊記」「東遊記」などの紀行文は、当時の多くの人に読み親しまれた。 

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