利長の窮地
前田利家
 まず、関が原合戦前後の前田家の動きを見ておきましょう。
 周知のように豊臣政権下、大名たちのパワーバランスは前田利家によって保たれていたといっても過言ではありませんでした。秀吉の五大老制とは、簡単に言えば特別に強力だった徳川家康をおさえ込んで、豊臣家の安泰をはかるための合議制組織。中でも前田利家の果たす役割は大きかったと言えます。
 太閤秀吉から「昔なじみの友人、律義者。」とあつい信頼を受け、豊臣家嫡男、秀頼の後見役をゆだねられていた利家は、天下取りを狙う徳川勢力の重石となっていたのです。
 慶長3年(1598)8月、秀吉が嫡子秀頼の行く末を徳川家康と前田利家とに固く頼み世を去ります。特に、利家には息を引き取る際まで、その手を取り「秀頼をたのむぞよ、筑前(利家)」と言い続けたそうです。しかし、秀吉の死後一年を経ない慶長4年(1599)3月、秀吉の後を追うように前田利家も世を去ります。

秀吉の政治

  長男利長は、利家の遺言により「秀頼様を御守し、これより三年間は大坂を離れてはならない」と使命を受け、豊臣家の後継者豊臣秀頼を後見するという大役を利家から引継ぎました。そして、秀吉の死後、野望をあらわにしていく徳川家康の抑えとなるべき重責は、若き利長の双肩にずっしりとのしかかるところとなります。
 ところが、利長は父の死後半年もたたぬ8月に、その遺言を守らず大坂を去って加賀に帰ってしまうのです。なぜ利長が大坂を去ったのか、この利長のとった不可解な行動の理由は定かではありません。これでは、まるで責任放棄。
 一説には徳川家康の助言に従ったとも言われています。天下取りをねらう家康にとって、加賀藩主前田利長は目の上のタンコブのように邪魔な存在。うまく言い含めて利長を秀頼から遠ざけたのだと。
前田利長
 この利長のとった行動に対する、世間評はさすがに悪く「前田の利長は、徳川家康の家来も同然じゃ。先代の利家殿が生きていれば、あのような軟弱な行動はなさるまい。利家殿はクサバの陰でかげで嘆いておられることであろうのう。」といったようなものでした。
前田家古参の家臣たちですら、「前田の家運もこれまでか。」と嘆いたといいます。
 時を経ずして、「利長が加賀に帰ったのは徳川家康討伐を企てるためである」との風聞が流れました。そして、なんと利長と淀君(よどぎみ)が不倫関係にあるなんていううわさもあったとか。これには、仰天です。
徳川家康
  淀君は、改めていうこともないでしょうが、豊臣秀吉の側室で秀頼の生母です。浅井長政と織田信長の妹お市の方との間に生まれた、絶世の美女。一説に、 淀君は永禄10年(1567年)の生まれとか。とすれば永禄5年(1562年)に生まれた前田利長より五歳年下。慶長4年当時の御歳は、利長が38歳、淀君は33歳です。利長と淀君、うわさは本当か?
 現存の肖像画をみる限り利長さんは相当に男前です。狸おやじと言われた駿府の御人とは比べるべくもない。その端正なお顔立ちゆえに、いろいろとご苦労もおありになったことでしょう。男同士の嫉妬心というのはやっかいだからねぇ。
 慶長4年(1599)の9月、増田長盛が大坂の徳川家康を訪ねて告げました。
 「浅野長政・大野治長・土方雄久らが、徳川様の暗殺を企てておりまする。そのものたちを陰で操っているのは、実のところ加賀の前田利長。しかも利長は、淀様と夫婦となり、秀頼様を後見するつもりですぞ。」
 本当の首謀者は石田三成であったとか、徳川家康の自作自演であったとかといろいろ言われておりますが、狸おやじ・徳川家康はすぐさま、加賀征伐の兵を集めました。事の真偽はともあれ、これを機に加賀藩を潰してしまおうというわけです。家康挙兵の通報を宇喜多秀家から受けとった加賀藩家中は震撼します。
 この窮地を何とか話し合いで脱しようと、加賀藩では筆頭家老の横山長知を上方の徳川家康のもとに送ります。横山長知は、捨て身の覚悟で懸命の釈明を行い、利長の疑惑をはらすことに成功。加賀征伐はなんとか回避されました。因みに、この横山長知は、越前府中時代からの古参の家臣。前田利長には昼夜を問わず側に付き従ったという忠義の人物でした。また、高山右近の娘が横山長知の長男康玄に嫁いでいたことでも知られています。右近が加賀藩を追放された頃、横山も加賀藩を去り出家して京都に隠棲しますが、大坂の陣を機に三代利常のもとに戻りました。(横山家は、後の「加賀八家」のひとつ。)
 このとき徳川家康と交わした約束により、利長の母春芳院まつを人質として江戸へ差し出すことで、加賀藩は救われました。


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