穴太衆の石垣
大津市坂本 穴太積の石垣
 前回の取材で訪れた大津市の坂本は、穴太衆(あなのうしゅう)と呼ばれる石工(いしく)集団のふるさとです。坂本の町のあちらこちらには、野面積(のづらつみ)と呼ばれる、穴太衆に独特の手法による石垣があります。苔むした石垣に、樹々の木漏れ日が当たり刻々とその表情がうつろう様子がとても美しく、しばし見とれていました。そのような自然の光が織り上げる風景を写真に収めようなんてことは、なかなかできることではなく、皆さんにお伝えできないのが残念です。
 穴太衆の野面積とは、加工を施さない自然石をバランスよく積み
かつての里坊、
料亭「芙蓉園」の庭園の石積み
上げ、大石と大石との隙間に小石を埋め込んでいく手法です。一見、粗雑な方法のように見えますが、積み方に秘訣があり、排水もよく崩れにくい堅牢な石垣を作り上げます。高岡城跡に残る慶長時代の石垣もこの野面積によるもの。加賀藩お抱えの穴太衆の手によると考えられています。この後述べますが、穴太衆の活躍は坂本にとどまるものではなく、全国的な展開を見せていたのです。
 穴太衆のルーツは大陸からの渡来人であるといわれています。比叡山近隣で多く発見されている、6〜7世紀の古墳群の石室には、穴太積と極似する野面積が用いられており、彼ら穴太の石工の先祖、帰化系技術者の手によるものであろうとされています。
 その後、穴太の石工技術は、比叡山寺院の石垣普請とともに発展してきましたが、戦国時代にその転機を迎えます。織田信長の安土城の石垣普請に参与して以来、彼らは一躍注目を浴びるようになったのです。
安土城石垣
 戦国時代は、ご存知のように「鉄砲」の伝来によって大きく戦法が変化した時代でした。城郭の形も、土塁と壕・板垣からなる中世的城郭では鉄砲戦に耐えることが出来ず、土塁を強固な石垣で覆った近世的城郭へと移行しました。その先駆となったのが天正7年(1579)5月に完成した安土城だというわけです。安土城は天主閣を備える初めての城というだけでなく、穴太衆による大掛かりな石垣でガードする城ということでも画期的でした。
 織田信長が本能寺に倒れてからも、穴太の石工たちは、豊臣秀吉によって大坂城、聚楽第、方広寺大仏殿、伏見城などの天下普請に採用され、その本領を遺憾なく発揮、ますます評判は高まりました。
 そして、関が原合戦以降の徳川家康による、大坂城・伏見城・江戸城・駿府築城・名古屋城などの天下普請にも参加する一方、地方都市における築城ラッシュの時代には、全国の名城といわれる城の石垣普請のほとんどに穴太衆は遠征し活躍したのです。全国の諸大名は、石垣施工技術に工夫を凝らし、競い合ってより高くより強固でしかも、美観に優れた壮麗なる城郭を築き、穴太衆の石積み工法は大変な進化を遂げることになりました。 
野面積の伝統芸を数段に発展させ、幾種類もの高度な工法を確立するに至ったのです。
 また、穴太衆は、石垣普請ばかりでなく、河川の普請や橋台普請・石橋作りにも優れた能力を発揮しています。日吉大社の入り口に架けられている3つの石橋、二宮橋・走井橋・大宮橋は、坂本の穴太衆によるものといわれ、穴太衆の構築した石橋作りの技術がいかに高いものであったかが伺われます。
日吉大社大宮川にかかる二宮橋(左)・走井橋・大宮橋(右)は「日吉三橋」と称され、ともに重要文化財。豊臣秀吉の寄進と伝えられる。
 穴太衆の河川周りの普請は全国各地にその例が見られ、加賀藩お抱えの穴太衆である穴生一族・後藤一族も、藩領内の川除普請・橋台普請などにその手の跡を残しています。
 また、高岡市にある前田利長墓所は武将の墓の中では破格に壮大なものですが、その大きさもさることながら、彫刻や石組みの技法には眼を見張るものがあります。すなはち、墓の基壇に見られる精巧な石積みは、当時の石工技術の最高水準を示す作品の代表格であって、形と大きさに厳密な統一性をもたせて加工を施した石を、微塵の狂いもなく垂直に積み上げているその優れた施工技術は、ただただ圧巻というしかないのです。
 石の固く冷たい質感を感じさせない柔和で清楚華麗な蓮花のレリーフは、狩野探幽が原画を描いたと伝えられています。
前田利長墓所の基壇

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