石の産地
 高岡城石垣の石の産地については、「金沢城と同じく加賀の戸室山の石を使用した」と古くからの伝承がありました。石川県と富山県との県境に位置する戸室山の石切り場から、金沢の石引町を通って運搬し金石の湊から舟積して能登半島をぐるりまわって高岡に搬入されたとも、戸室から山越えで越中側へ運ばれていたとも言われていたのです。  
 しかし、近年の研究には新たな見解も見られます。地元の考古学研究者・西井龍儀さんによれば、砂岩は富山湾の虻が島・灘浦海岸(小境石・薮田石)・雨晴海岸(岩崎石・太田石)から、花崗岩は早月川流域などから、安山岩は黒崎・能登島・前波から採石して運ばれたと予想されるそうです。下の表を見ると、高岡城の石垣の石の多くは、能登半島の富山湾の西側海岸地区の採石場から供給が多く、砂岩40.4%と安山岩13.9%とを合わせると過半数を占めています。また、早月川から花崗岩の供給も30.5%と多くを占めています。この調査結果を見ると高岡城石垣における戸室石の構成率は極めて低いようです。
高岡城内堀側石垣の構成
砂岩
小境石
248個
28.7%
40.4%
薮田石
61個
7.1%
岩崎石
40個
4.6%
花崗岩
早月川
264個
30.5%
安山岩
 
120個
13.9%
不明
 
131個
15.2%
高岡工芸高校地理歴史クラブ1964年調査
虻が島・唐島調査団1998年調査による作表

西井龍儀さんの作図を参考としました
 早月川からの石の供給については、先に郷土史家飛見丈繁が次のようにいっています。
 「この(高岡城石垣の)石材は越中の石工がいう魚津御影である。利長は慶長14年3月18日富山城類焼のため魚津城に避難した。石材は魚津を流れる早月川から富山湾、射水川を渡って城域に運ばれたと考える。魚津御影は立山連峰剣山の一角が崩壊し早月川に押し流された無尽蔵の巨大な石材であって、石質堅く彫刻には向かないが石垣用には好適である。」(「越中のキリシタン」)
 高岡築城の期間、利長が滞在した魚津は石垣の石の重要な供給拠点であり、採石そして運搬の指揮をとるのに魚津は好適地でした。利長は石材の確保という使命を帯びて魚津に滞在していたというわけです。
 さて、平成15年3月と11月に高岡市の二上山総合調査研究会では、高岡城の石垣の石材産出とかかわる手がかりを求めて、石材を切り出した痕跡などの調査を行いました。結果、雨晴海岸の義経岩・女岩には、築城の折につけられたと思われる切り出しの矢穴の跡が見られることが判明しました。また別の調査では、富山湾に浮ぶ虻が島に高岡城石垣に見られるものと同形の刻印が見られると分かりました。
虻が島
雨晴海岸女岩に残る矢穴
 高岡城の石垣の石は、遠方の加賀戸室山よりもむしろ富山湾の西側海岸地区や早月川流域の近隣から、富山湾と河川の地回り的な水上輸送の便によって、城内へと搬入されていたのです。「殊更運搬上、不便な石の原産地を求める必要もなかった」と前掲の飛見論文が言っているように、遠い加賀戸室山に石を求めずとも、水運の便のよい近隣地域に石垣の石材は豊富にあったのです。
 また、前項で高岡城の建材のリサイクルのことをお話しましたが、石材のリサイクルについても目を向けてみるべきではないでしょうか。新たに採石された石のほかに、近隣の機能しなくなった廃城から運ばれた石も多く使用されたと私は考えます。安土城・大津城・長浜城などから石を寄せ集めたリサイクル型の城・彦根城のようにです。
 例えば、前田利長が13年間居城していた二上山の守山城跡や、天正13年(1585)の大地震で倒壊したという小矢部川上流の木舟城跡、庄川上流の増山城などの石材を転用するというケースもあったのではないでしょうか。新たに採石する手間が省かれ、資源と時間の節約につながる手段、地球環境にも?殿様のフトコロにもやさしい方法です。
廃城の石垣破却は防備の上でも必至の手段です。使用しなくなった城が、外敵や一揆勢力の手に落ち、砦とされては大変です。廃城は徹底的に破壊し、その攻防性を皆無のものにしておかなくてはなりません。
 高岡城の近隣の古い城は、いまだ中世的城郭を脱しておらず、土塁を中心とするに過ぎぬものだったから、高岡城に転用するような石材などないという意見もありますが、少なくとも守山城には石垣があったことが、近年の考古学調査で確認されています。また、守山城跡の近隣には、かつて石垣の石を運んだと伝える「殿様道」という道が今も残っています。この道には、縦半分に割った竹を等間隔に二本平行して敷いてレールとし、海岸から切り出した大石に麻縄をくくりつけて、牛に曳かせて守山城へと運搬したとの伝承があり、守山城が中世的な山城から、石垣を備えた近世的城郭へと発展を遂げていたことを示唆しています。
 この守山城の石垣は、守山城が廃城となり高岡に新城が誕生したときに、木町を経由して新城へと移築されたのではないでしょうか。木町の設置場所は、物資の河川輸送に都合がよいというだけでなく、守山城からの古材の運搬経路の要所という意味もあったわけです。
 また、石垣の石の産地として当然ながら千保川の川原石が考えられるでしょう。高岡が開町する以前の地理を描いているといわれる「関野之古図」を見ると高岡はかつて千保川の広い氾濫原であったことが分かります。高岡城はこの地図の中央上部を少し左にずれたあたりの「源野坂」という高台に築かれました。あえて言うべくもないことですが、氾濫原に散乱していたであろう、おびただしい量の川原石。これも、高岡城石垣の良材となったはずです。石垣には、大石のほかに栗石と呼ばれる小石が大量に使用されますが、高岡城には千保川の川原石から多く供給されたのでしょう。
関野之古図写し 高岡市立博物館所蔵
博物館ホームページデジタル写真より転載

高岡城・木町・守山城のおおよその位置。
矢印は予想される運搬経路。木町は中継基地。

雨晴海岸(あまはらしかいがん)の義経岩から女岩を見る。ここから切り出した岩が、守山城や高岡城石垣に使用された。義経岩は1187年(文治3)、源義経と弁慶が奥州へ向かう途中、にわか雨が晴れるのを待ったといわれる岩。この伝説が雨晴(あまはらし)の地名の由来でもある。右は義経岩の内部。JR氷見線雨晴駅からすぐ近くです。

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