石垣の刻印
 高岡城跡の石垣は、二の丸と本丸の間の土橋(現在の射水神社に向う道の土橋)に残っています。これは全国的にも珍しい慶長時代に作られた石垣です。石垣は、ほとんど加工されていない石を不揃いのままに積み上げた野面(のづら)の乱積み。外堀側に920個、内堀側に850個の石があるそうです。この石には不思議な刻印が残っています。
 石垣の刻印は、ご存知のように江戸城・大阪城・名古屋城・金沢城をはじめ全国各地の城で見ることができます。
刻印は多くの場合、天下普請によって築城された城に見られるとされています。すなわち、諸大名が連合してジョイント工法で石垣を作る天下普請の場合、互いの工事の受持ちを明確にするため、藩や家柄を示す記号として刻印が用いられたと考えられているのです。豊臣家も徳川家も諸大名によるジョイント工法を採用しました。諸大名を互いに競い合わせることで、早く効率的に普請を進めさせるのがねらいでした。また、彼らの忠義心を確認するという意味や、工事費用を捻出させ労働力を提供させることで諸大名の勢力を抑えようというねらいもあったのです。
高岡古城公園の石垣に残る刻印
金沢城石垣の刻印 高岡との共通点は多い
 加賀藩の金沢城や高岡城は天下普請でありませんが、多数の刻印が使用されていました。現在までの調査では、金沢城石垣には約200種類の高岡城跡石垣には約70種類の刻印が見られるのです。高岡城跡石垣の刻印には、上、中、王、田、井、卍、父、ひとつ串団子、2つ串団子、3つ串団子、ひょうたん、Δ、、○、のほか、H、十、X、Ψ、Φ、Υ、δ のような外来的な記号やの屋号のようなものもあります。また、十とΨのようにふたつの記号を組み合わせたものもみられます。
 高岡城跡の刻印の中で最も多いのは、ひょうたんの形、ついで卍が多いそうです。ひょうたんや卍の刻印は、大坂城や名古屋城にも見られます。大坂城の加賀藩受持ちの石垣にはひょうたんや卍の刻印が見られると聞き興味深く思いました。また、名古屋城の加賀藩管轄の石垣には3つ串団子の刻印がみられますが、同じものが高岡城跡の石垣にも見られます。
名古屋城の加賀藩のものと思われる刻印
 高岡市民の中には少年の頃、冒険心と好奇心とを抱いて石垣調査にいった思い出があるという方も多いでしょう。
 不思議な刻印が一体何を意味するのかは、高岡の謎のひとつとして、古くからいろいろと論じられてきました。先ずキリシタン由来説。高山右近が高岡城の設計に関ったこと、そして十字架の刻印があること、高山右近が城主をしていた高槻城にも同じ十字架の刻印があること、十字架のほかにもローマ字ギリシャ文字のような刻印が見られること、などからキリシタン由来説はかなり有力視されていました。そして、古代ユダヤ文字由来説、古式ハングル文字由来説、神代文字由来説、はたまた宇宙人からのメッセージだといった突飛な意見まで、高岡市民はこの刻印に歴史ロマンを感じ、熱く議論を交わしてきたのです。今では、石垣普請に携わった加賀藩家臣や加賀藩の石工集団の紋所だと、そっけなくいわれるようになっていますが、それではなんとなく拍子抜けしたよう。
 これで高岡の刻印を巡る議論に終止符が打たれたわけではありません。
 刻印の謎は、まだまだあります。高岡城跡には、現存するだけでも70種類以上もの刻印があるのですが、天下普請でもない高岡城石垣になぜかくも多くの種類の刻印が付されているのか。刻印のそれぞれは一体誰の印なのか。刻印には何か意味はあるのか。私たちの刻印の謎の究明はこれからも続くのです。

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