高岡城はリサイクル城?
復元された彦根城天守閣
彦根在住、小財さんの「The HIKONE Photo Gallery」より
彦根駅前伊井直政像 
高岡市鰹G生堂の製作
彦根藩主は代々この天突兜を着用した。
 関ヶ原合戦の後徳川家康は、畿内地方の要として家臣で徳川四天王の一人といわれた伊井直政を佐和山城に配しました。後に、直政の子直勝の代になると、家康は12名の諸大名に命じて彦根城を築かせました。慶長8年(1603)に着工し、慶長11年(1606)には本丸や天守閣が完成しました。高岡城の築城は慶長14年(1609)のことですから、彦根城と高岡城とは、ほぼ同年代に属する城といえるでしょう。
 彦根城はご存知のように立派な城郭ですが、別名、寄せ集めの城ともいい、天守は京極氏の大津城・天秤櫓は豊臣秀吉の長浜城、太鼓門は石田三成の佐和山城、西の丸三重櫓は浅井長政の小谷城天守、石垣の石材は安土城・長浜城・大津城という具合に、彦根城の多くの建造物は、廃城となった城から遺構を移築して作られたといわれているそうです。先の彦根城築城石曳きの図の大石も、おそらくは安土城・長浜城・大津城など琵琶湖湖畔の廃城の何処かから運ばれたものでありましょう。
 彦根城に限らず、城から城への建物の移築や古材の再利用は、当時頻繁に行われた方法だったようです。例を示せば、秀吉が唐入りの際に築いた九州肥前名護屋城の場合、大手門は仙台城へ移築され、そのほかの建物のほとんどは唐津城に転用されたといいます。また、滋賀県大津市坂本の古刹・西教寺の客殿は、文禄5年(1596)7月に起こったマグニチュード7.8の大地震で倒壊した伏見城から、破損の少なかった殿舎を移築したものだそうです。
滋賀県西教寺客殿 門
 
滋賀県西教寺客殿内部
南側が入母屋造、北側は切妻造の柿(こけら)葺の堂々とした建物で、桃山様式の特徴がよく現れている。内部には、狩野派によって描 かれた戸板の絵や障壁画が並ぶ。
 その伏見城も、文禄4年(1595)に破却された聚楽第や淀城から建物を移築して作った城でした。震災後、伏見城は大改修され、豊臣家の巨万の財と当時の最高水準の建設技術とを搭載して築かれました。無論のこと、建物には良材中の良材が使用されたのです。秀吉の没後、慶長5年(1600)の関が原合戦を経て伏見城は徳川家の手に渡りました。この時、豊臣家が築いた伏見城の殿舎は豊臣家とゆかりの深い各地へと下げ渡しされ、伏見城は徳川家の再建によって徳川の城として生まれ変わったと考えられています。豊国神社唐門、西本願寺唐門、高台寺表門・時雨亭・傘亭、御香宮拝殿、竹生島夫須麻神社本殿・唐門などはその時下げ渡された建造物だそうです。(第一次下げ渡し)
豊国神社唐門
関が原合戦後、豊臣家が築いた伏見城の殿舎は、城外の豊臣家と縁故の深かった地に下げ渡しされた。豊国神社唐門はそのひとつ。
 更に時を経て元和5年(1619)伏見城は廃城になることが決まり徐々に建物の下げ渡しが始まりました。そして、元和9年には三代将軍徳川家光によって完全に破却されたのです。伏見城の石垣の石は徳川家による大阪城再建に転用され、建築物は大阪城・二条城・福山城・京都の寺院などに移築されました。(第二次下げ渡し)
福山城伏見櫓は元和8年(1622)に福山藩主水野勝成が伏見城の櫓を移築したもの。この時、筋金御門や月見櫓・殿舎・湯屋・台所等も移築されたという。
 このように戦国時代の城郭の建物とはその堅牢なイメージとは裏腹に実にはかない体質を持ち、築いては短期間にして滅びる去る運命にあったのです。そして多くの場合、建物の移転、用材の転用などのリサイクルによる築城でまかなっていたのです。
 高岡城の建物には、「聚楽第の遺構を使用した」「豊臣秀次の伏見の邸宅を移築した」「伏見御殿の一部を移築した」「伏見城の良材を転用した」などの伝説があります。また、「大広間には長谷川等伯の襖絵が描かれ」「客殿にはことごとく馬の絵が描かれていた」ていたと言います。豊臣秀吉が臨終の際、前田利家・利長親子にまだ四歳であった息子秀頼の行く末を「たのみもうす、たのみもうす」と懇願し、その代償として御殿を前田家に寄贈したというのです。豊臣秀吉の遺言状により、利長が秀吉遺品「橋立の壷」「吉光の脇差」をもらったというのは有名な話しですが、なんと御殿までもらっていたと言うのです・・・。高岡は、大ほら吹きの集まりかと思われるかも知れませんが、この高岡に残る昔からの言い伝え、当時の豊臣家と前田家との親密で特別な関係からすると、まったく有り得ぬ話ではないようも思われます。両家は、織田信長の家臣であった時代から、隣どうしに居を構えた親しい間柄。秀吉の妻おねと利家の妻まつは、姉妹のように仲がよかったとは、誰もが知るエピソード。豊臣秀吉が天下人となってからも、前田利家利長親子は最も信頼のおける重臣として、豊臣政権を支えてきたのです。秀吉の子秀頼が誕生してからは、利家を秀頼の後見役とし、後には利長を後見役としました。秀吉の前田家に対する信頼は非常に厚く、豊臣家家臣たちの羨望の的でもありました。「亜相公御夜話」という古文献には、次のような内容の話が書かれています。前田利家が秀頼の後見役に決まった時のこと、始め秀吉は関白秀次の旧領である美濃・尾張・伊勢を利家に与えるつもりでしたが、これを聞いた側近の石田三成・増田長盛が「上様、お気持ちはごもっともですが、前田利家というやつは、当代無双の武辺者でじきに腹を立てる気の短い男にございます。上様に反抗心を持ったりすれば、即刻その日のうちに謀反を起こすことにござりましょう。あのような外聞ばかりを気にかける者には、美濃・尾張・伊勢よりも、伏見ナンバーワンの超豪邸である関白秀次様の御遺館と、今利家に預けてある越中・新川郡を与えておかれるのがよろしかろうと存じまする」とはばみ、秀吉はこれを諾したと。
 「高岡城の殿閣は京都聚楽第の遺構である」「高岡城の建物には、豊臣秀次の伏見の邸宅を移築した」――― 豊臣秀次は秀吉の姉の子にあたる人物で、子のなかった秀吉の養子となり、秀吉の次期継承者として天正19年(1951)関白に任ぜられました。秀吉は隠居して伏見御殿に移り、秀次が京都聚楽第の主となりました。ところが、豊臣秀吉と淀君の間に秀頼が誕生したのを機に両者には亀裂が生じ、文禄4年(1595)に秀次は失脚、高野山に追われ切腹を命じられたのです。鬼と化した秀吉は、秀次の妻・側室・子どもをも京都三条河原で斬首してしまいました。これが有名な豊臣秀次事件です。京都聚楽第はその後、伏見城に移築されたと言います。秀次は伏見にも御殿を所有しており、前田家では、主を失った秀次の遺館を拝領したというのです。前田親子は、豊臣秀次ともとても懇意でした。聚楽第の遺構なのか、秀次伏見御殿なのか、いずれにしろ当代きっての超豪華な建物にはちがいありません。しかし、いくら立派とはいえ怨念渦巻くような屋敷をもらってしまったわけです。その御殿が巡り巡って高岡城に移築されたのかも知れませんね。
また、「伏見御殿の一部を移築した」「伏見城の良材を転用した」とも言われていますから、大地震で倒壊した伏見城の建物の一部が移築されたかとも思われるし、伏見城の第一次下げ渡しの際に、遺構の一部が豊臣家とゆかりの深かった前田家の手に渡ったという可能性もありそうです。
二番町曳山の轅(ながえ)
 高岡城の殿舎については絵図が残っておらず、その姿は判然としませんが、高岡城殿舎=伏見御殿遺構説は、私たち高岡市民の想像を大いにかきたてるものです。桃山文化の薫り高い豊臣家ゆかりの御殿が、もしも高岡に今も現存していたら、それはもう国宝に間違いなしでしょう。
 高岡御車山は、後陽成天皇と正親町上皇が聚楽第に御幸されたときのホウレンの車を太閤秀吉から前田利家が拝領し、後に利長に渡ったもので、慶長14年(1609)に利長が高岡の町を開いた時に、町人たちに与えて改装させたものであるというし、高岡はまさに豊臣家の遺産に溢れる町だった可能性があります。 
関野神社祭礼繁昌略図 明治16年 高岡市立博物館蔵

二番町曳山の主題は桐と菊。車輪の金飾りなどには桐や菊の紋様が散りばめられている。鉾留も「桐」で大きな桐葉3枚から6本の花枝が突き立った形。桐紋といえばやはり豊臣家が思い起こされる。この二番町の曳山だけが2輪車で、後の6つの曳山は4輪車だ。
高岡市在住 荻原敦さんの撮影
 しかし、高岡城殿舎=伏見御殿遺構説は、単に、高岡城の建物に良材を使用していたことのたとえ話に過ぎないという意見もあります。「まるで伏見の御殿のように立派な造りだ」というくらいの意味だと・・・。確かに、京都近辺には伏見城の遺構だと伝える建造物が多数存在していますが、その多くは眉唾物のようですね。
 高岡城殿舎=伏見御殿遺構説が事実かどうかはなんとも言えないところです。しかし、高岡城もまったくの新築の城というよりも古材を巧みに取り入れたリサイクル城であった可能性を示唆する話として興味深く思います。

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