追記 2
蒲生 肩衝
 金沢の中村記念美術館は、兼六園から程近い本多の森に囲まれた茶道美術館です。展示施設のほかに茶室・庭園を備えたこの美術館では、市街地の雑踏がうそのような閑静な佇まいを見せ、訪れる人に心の安らぎを与えてくれます。
 さて、中村美術館の所蔵品に「蒲生 肩衝」と呼ばれる茶入れがあります。この茶入れは蒲生氏郷が所持した後に加賀前田家に入り、元和元年(1615)八月に三代藩主利常から大坂の陣で功のあった本多政重に与えられ、年寄筆頭格の本多家が代々守り伝えてきたものだそうです。氏郷にちなんでこの名がつけられています。
 「蒲生 肩衝」は、姿・釉薬色ともに重厚感があり、どっしりとした大振りの肩衝茶入です。褐色の陶土に固い光沢のある黒釉がかかり、なだれがすぅーっと一筋釉間を越えて裾まで流れていて、なんとも言えずよい景色をなしています。利休七哲の筆頭に数えられ,利休切腹の後も、子の小庵を会津に保護し千家の継続に助力を惜しまなかった、茶人蒲生氏郷の「好み」を伝える貴重な遺品といえるでしょう。
 蒲生氏郷とも親戚関係にあり、利休七哲の一人、高山右近を客将として受け入れていた加賀前田家もまた茶道への造詣は深く、前田利家・利長親子は利休の直弟子として茶道を学んだとされています。「利休七哲」は周知のようにいろいろな説があるわけですが、「茶道四祖伝書」では前田利長を、利休七哲の筆頭に上げています。利長は秀でた茶人でもありました。
利長が利休の弟子としていかに茶道に熱心であったが伺える話として次のような話が残っています。利長は高山右近に、
「私には、畏れるものが3つある。ひとつめは、太閤秀吉に謁見する時、二つめは,高僧に参禅を願う時、3つめには、利休の前で茶をたてる時」
と言ったそうです。
 また、利長は、文禄年間(1592-1596)の守山城主時代の頃より、新川郡瀬戸において焼き物窯の育成を図ったといわれています。一説には、それに先行する天正16年(1588)、当時新川地方の管理を任されていた、利長の伯父前田安勝が故郷の尾張から陶工の小二郎なる者を招き、上末(かみすえ)の地に住まわせて前田家の手厚い庇護のもと瀬戸焼を作らせ、施釉製陶の技術を導入したとも。以降、越中瀬戸焼は、加賀藩の御用釜として前田家の保護の下、茶道具の製作を中心に発展してきました。新川地方における本格的な施釉窯の設置は、日本海側では最古のものと言われています。なぜ、このような早期に施釉窯の設置されたのかといえば、茶の湯に精通していた前田家の先導もさることながら、前田家の領国支配以前既に、この地域において古くから須恵器職人の活躍があったこと、京との交流がさかんであった能登の七尾・越中の放生津などでは、早くから茶の湯文化が発達いたことなどにも原因が求められるのでしょう。
 当時は織田信長や豊臣秀吉をはじめ武将たちの間で茶の湯がさかんであり、能とともに茶道は武将たちの社交には欠かせない教養でした。武将たちの茶道具へのこだわりも大変なものでした。特に豊臣秀吉の文禄・慶長の役(壬申・丁酉の倭乱)では、朝鮮に出陣した武将の多くが朝鮮の優れた陶工を日本へ連行して帰り、各領国で御用窯を始めました。その影響を受けて他の武将たちも次々と窯を開設。茶の湯のための陶器を焼くことが武将たちの間で一大ブームとなったのです。文禄・慶長の役を「やきもの戦争」とも呼ぶ所以です。前田利長の越中瀬戸窯は、こうした武将たちの御用窯ブームの中でもかなり先駆けとなって設置されたと考えられます。一方、蒲生氏郷のほうも、年代は定かではありませんが、京都から「天下一のちゃわんやき 吉右衛門」という人物を招請し会津に御用窯を開いたといわれています。
現在、前田育徳会には、前田家伝来のものとして、唐物茶入の各様式を写した24個の越中瀬戸の茶入が所蔵されています。いずれも逸品ぞろいとして有名ですが、中でも鉄釉の茶入は名品として誉れ高いものです。蒲生氏郷と前田利長のふたりの殿様の領国間には、陶工技術の交流もあったのではないか。「蒲生 肩衝」にかかる黒釉の景色を見ていてふっとそう思いました。

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