氏郷と利長 先祖の話
近江八景「瀬田夕照」 二代歌川国貞画  嘉永2〜5年(1849-52年) 背景に瀬田の唐橋を描く
 戦国武将の先祖譚には眉唾物も多いようですが、武将たちは競って誉れ高い家祖の存在を主張していました。ご存知のように、前田家では「先祖は菅原道真である」と言っていました。菅原道真は流刑の地太宰府で二人の子を持ち、二人のうち兄の方は尾張へ移りそれが前田家の祖先になったのだそうです。そして、蒲生氏郷の先祖は誰かといえば、なんと平将門征伐で有名な藤原秀郷=俵藤太だと言っていたそうです。
 蒲生氏郷の出生地日野は、近江商人発祥の地として有名な琵琶湖のほとりの町です。日野から程近い瀬田の唐橋と三上山(みかみやま)には、俵藤太の次のような伝説があります。
 「それは遠い昔、醍醐天皇の世のこと、近江の国、琵琶湖の南岸にある瀬田の唐橋に長さ60mもの大蛇が横たわるということがあった。人々は怖れて橋を渡ることができなかったが、ちょうど京の都からの帰りに瀬田の唐橋を通りかかった俵藤太こと藤原秀郷は、少しも怖れる様子もなく、大蛇の背を無造作に踏みつけて橋を渡ってしまった。
 その夜のこと、ひとりの青い衣を着た老人が藤太を訪ねてきた。
『私は昼間お会いした大蛇である。琵琶湖に住む龍神の一族の者だが、三上山の百足に苦しめられ困っておる。あなたを見込んで、ぜひ百足の退治をお願いしたい。』
 藤太は、『よし、引き受けた』と、先祖伝来の名剣と重藤の弓に3本の大矢を携えて三上山に赴いた。すると、突然、すざまじい稲妻がピカッと空を走りガラガラと大きな雷が轟いたかと思うと、2、3千本余りの足、一本一本に松明を掲げた大百足が姿をあらわした。その全長は、三上山を7巻き半するほど。
 藤太は2本の矢を射るが、大百足は、なんの苦もなく跳ね返した。そこで最後の一本の矢尻に唾をペペッと吐きかけ、『南無八幡大菩薩』と念じて、大百足の赤く光る2つの目のあいだをねらってハシッと矢を射った。大百足は大地を揺るがすような唸り声を上げて身もだえしながら躍り上がった。次の瞬間、足に持った松明の火は一斉に消え、大百足は鈍い音を立てて地面に体を落とし息絶えた。こうして、藤太は大百足を退治することができた。龍神は喜び、藤太に褒美として鎧・太刀・俵・巻絹・釜・砂金・如意童子・鐘など10種の宝物を贈ったという(三上山の百足退治)」
 いやー、おもしろい話ですねぇ。藤太の唾には余程強力で特殊な消化酵素が含まれていたのでしょうか。ペペッとやった矢が当たったことが、大百足の直接の死因となったのです。
 この勇猛果敢な弓矢の名手、俵藤太を蒲生氏郷は先祖だと言っていました。「瀬田の唐橋を制するものは、天下を制す」といわれたほどですから、瀬田の唐橋ゆかりの俵藤太伝説は、武将蒲生氏郷にとっては格好の家祖譚でしょう。
蒲生家の家祖についてのこだわりはかなりのもの。蒲生家の家伝書には、遠祖の百足退治を『延喜18年(918)10月21日』と日までを克明に書き留めているそうです。また、豊臣秀吉に長男棄丸が生まれたとき、蒲生氏郷はお祝いとして「当家の家宝でござる。棄丸様が、強い武将となられますように。」といって藤太がペペッ唾を吐きかけて百足退治をした矢尻と称する品をプレゼントしたというのですから、そのこだわりは半端じゃない。
 さて、前回の古城万華鏡Tでお話した悪王子の話を覚えておられますか。前田利長が13年間城主を務めた守山城があった二上山に伝わる大蛇退治お話です。二上山の大蛇を退治したのも俵藤太でした。そして、二上山の大蛇退治伝説と三上山の大百足退治伝説とは、話しの構成がよく似ていますね。兄弟説話とでもいうのか、二上山と三上山までもが語呂合わせのようです。    このふたつの説話にも「なまず兜」と同様に、同盟意識が働いているのでしょうか。二上山の悪王子説話の創作には、前田利長と蒲生氏郷、ふたりの殿様が一役二役買っておられるのではなかろうか・・・と、想像してしまいました。
 守山城があった二上山の麓には、今も五十里(いかり)という名の村があります。その名の由来は、近江からちょうど五十里なので、近江から移り住んだ者がその名をつけたとか。五十里がいつの時代からの地名であるかは定かではありませんが、氏郷の故郷近江と利長の城下町守山との強いつながりを伝える地名のようにも思えます。また、前回紹介した「越中守山町屋敷之御帳」に見られた「伊勢屋」の屋号や「伊勢屋敷」の名には、氏郷の開いた城下町、伊勢松坂との関連が想起され興味深いところです。
 瀬田の唐橋といえば、利長の武勇伝があるので書き加えておきましょう。天正10年(1582)6月2日、織田信長に招かれた利長は妻永姫を伴って安土から京都に向っていました。奇しくもその日の夜半本能寺の変が勃発、利長は近江瀬田でその凶報を得たのです。利長は、急遽、瀬田の唐橋を打ち壊して明智軍の進行をはばみました。そして、永姫を尾張荒子に避難させる一方、蒲生氏郷と共に信長の夫人達を安土城から日野城に移し保護したのです。この援軍に安土城の女たちは皆うれし泣きしたそうです。一説によれば、氏郷・利長らは信長次男の織田信雄を奉じて明智光秀の仇討を企てました。しかし、周知のように明智討伐の軍功は急遽中国攻めから駆けつけた秀吉にあったのです。天下を掌中に納めたのは秀吉でした。この時、氏郷27歳、利長21歳。

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