氏郷と利長 高岡城の馬の絵
 永山近影が大正3年(1914)に記した、前田利長の伝記『瑞龍公世家』には次のような一文があります。
「公また別に旅館を高岡に建つ。館中の障壁等、ことごとく馬を描く。それ豊臣公秀吉、高徳公に賜うところの伏見の殿営を移せしものにかかれり。」利長は、高岡城の殿舎とは別に、旅館を建てた。その旅館の障壁画には、全て馬が描かれていた。これは、秀吉が、利長の父である高徳公こと前田利家に贈った伏見邸を移転したものだという。
 馬の絵の障壁画とは如何なるものなのか、私の疑問でした。安土桃山時代は、生活空間を飾る絵画として屏風画・障壁画・襖絵・天井画が盛んに描かれた時代です。元信・永徳・山楽・内膳ら狩野派や長谷川等伯・海北友松など、優れた絵師を輩出したのもこの時代のこと。しかし、現存するこの時代の絵画の中で、「馬」をモチーフにしたものといわれると、簡単には思い浮かびません。「洛中洛外図」や「合戦図」「南蛮屏風」などの中の一コマとして馬が描かれることはあっても「ことごとく馬を描く」というほどではありません。「関が原合戦図屏風」にはかなりの馬が描かれていますが、馬が主役というのではありません。一体、「ことごとく馬を描く」とは、どういう絵をいうのでしょう、桃山時代の日本絵画にそんな絵があったのでしょうか。
 「馬の博物館」(財団法人 馬事文化財団〒231-0853 横浜市中区根岸台1−3根岸競馬記念公苑内)に馬をテーマとした絵について聞いてみました。
すると、桃山時代から江戸時代初期の絵図の中で、馬を主題に描いたものとしては、「厩馬図屏風」「牧場図屏風」「競馬図屏風」「群馬図屏風」などが考えられると教えてくださいました。
厩馬図屏風 高田稔さん所蔵
群馬図屏風一部 海北友松筆
ミホ・ミュージアム
 「厩馬図屏風」は、厩馬(うまや)の様子を描いたものです。厩馬図は室町時代には既に描かれ、貴族たちの殿舎を飾っていたそうです。桃山時代になると、武士たちにとって社交場でもある厩は絵の題材として好まれ盛んに描かれたようです。上の厩馬図屏風は、個人の方の所蔵品ですが、長谷川等伯一門が合作で描いた屏風で、比叡山延暦寺の東本宮に豊臣秀吉が奉納したという謂れのあるお宝です。6曲屏風が2双対になったもので、一曲につき1頭の馬が、全部で12頭の馬が描かれ、「ことごとく馬」の絵です。これは屏風画ですが、高岡城の障壁もこのような絵図が描かれていたかと思わせるものです。高岡城の大広間には長谷川等伯の絵があったと伝えられていることは既にお伝えしましたが、高岡と長谷川等伯との関連はそればかりではなく、高岡市利屋町の大法寺には「日蓮上人像」「釈迦多宝仏図」「鬼子母神・十羅刹女図」「三十番神図」のなんと4点もの長谷川等伯の仏画が所蔵されており、いずれも国重要文化財の指定を受けています。大法寺仏画には、当時等伯が名乗っていた「信春」の落款名があります。
 長谷川等伯は、越中とも往来が頻繁であった七尾の住人でした。七尾の染物屋の養子となり、家業の傍ら絵を描くようになりました。やがて元亀2年(1571)の頃に33歳で上洛した等伯は、「竹林猿猴図屏風」「祥雲寺障壁画」「松林図屏風」などの名画を残しました。今日でも等伯は桃山絵画の巨匠として知られています。
 旅館のことごとく馬を描く障壁画が長谷川等伯の筆と書かれていないとはいえ、等伯一門が描いたという「厩馬図」には心動かされますね。また、豊臣秀吉の寄進の品と聞くとますますぐっと来ます。類似の絵図が高岡城旅館の障壁に描かれていた可能性はあると思いませんか。ちなみに、大法寺の仏画は永禄7年(1564)に七尾時代の等伯によって描かれたものです。
 また、上の「牧馬図屏風」は、武士たちが野生馬の群れを追い捕獲している様子を描いた絵図で、たくさんの馬が描かれています。かつての日本では牧馬で馬を飼うのではなく、自然の中で放し飼いにして成長させた後に捕らえて調教する飼育法がとられたそうで、牧馬図はその捕獲の場面を描いたもの。武士たちの中にエキゾチッ
クな韃靼人も加えながら描いているところに趣向性を感じます。そして、外来の風景を織り交ぜながら、背景は大和絵特有のやさしい日本の風景となっているのも面白いところ。
現在、東京国立博物館に所蔵されているこの絵図は、長谷川等伯の筆と伝えられています。馬の動きの表現はさすがにすばらしいですね。この絵には、「信春」の落款名があり、推定では1570年代の作とのこと。「牧馬図」のような絵図も候補のひとつでしょう。
 「群馬図屏風」は、山野に馬が遊ぶ牧歌的な風景を描いた水墨画です。戦国時代が終わり、戦場を離れて安穏と過ごす馬たちの様子が描かれた「群馬図」は、桃山時代に人気の高かった題材だそうです。よく太った馬は平和な時代の到来を象徴しているようです。高岡城の障壁画もこのような「群馬図」だったのでしょうか。立山連峰を背景に草を食み、自然と戯れる野生馬たちの姿が水墨で描かれていたのかもしれませんね、想像にすぎませんが・・。
 そして、もうひとつ桃山時代に描かれた馬の絵があります。
サントリー美術館所「泰西王侯騎馬図屏風(静の騎士)」
(固く複製を禁止します)
 上の絵は、サントリー美術館所蔵の「泰西王侯騎馬図屏風(静の騎士)」の一部であり、下の絵は神戸市立博物館所蔵の「泰西王侯騎馬図屏風(動の騎士)」の一部です。ともに4人の馬上の騎士を描いており、刀を抜いている方を「動の騎士」刀を鞘に収めている方を「静の騎士」と呼んでいます。この2つの屏風は、もと蒲生氏郷が所有していたと伝えられるもの。会津若松の鶴ケ城に伝来した、八曲が1シリーズとなった華麗豪華な屏風だったのです。
神戸市立博物館所蔵
「泰西王侯騎馬図屏風(動の騎士)」
(固く複製を禁止します)
 そのテーマ、そのモチーフ、その技法、どれをとってみても西洋的なこの絵図は、当時の日本絵画の中ではまったく異質な存在です。しかし、西洋画を模倣しただけではありません。この絵図には、背景に押された金箔、墨による下書き、彩色顔料など、日本画の伝統技法も巧みに取り入れられており、大変に完成度の高い和と洋との融合した様式が見て取れます。イエズス会によって西洋からもたらされた小さな原画を、人の等身大の大きさにまで拡大して描いたという、その正確なデッサン力も見事です。
 こうした異国の戦闘シーンは、戦国武将たちに人気の主題であったようで、天正6,年(1578)に書かれた、ある宣教師の手紙には「日本の武将たちはヨーロッパの武人の姿や野戦図、海戦図などが好みで、それを手に入れることを求めている」と書かれているそうです。
 蒲生氏郷は、レオという洗礼名をもつ熱心なキリスト教信者でした。そのことも、氏郷の手に「泰西王侯騎馬図屏風」が渡ることとなる大きな要因だったでしょう。彼は、南蛮文化にも高い関心を持ち、南蛮人と接触する機会も多く持っていたにちがいありません。
 前田利長所有の「ことごとく馬を描く」障壁画は父利家が太閤秀吉から賜ったものだといっています。大坂城を南蛮からの舶来品で飾り、ベットで寝てスリッパを愛用していたと言われる秀吉にあって、この「泰西王侯騎馬図屏風」のような作風は、いかにも秀吉好みと思われます。彼の所蔵品の中に類似の絵があっても不思議はありません。そして、それを舶来品好きな前田家に賜下するなどは、如何にもありそうな話です。いや、蒲生家・豊臣家・前田家を取り立てていうべくもなく、先の宣教師の手記に寄れば、当時の武将たち皆に人気の高い絵のひとつだったのです。
 高岡城の旅館にあったという「ことごとく馬を描く」障壁画とは、どのようなものなのか。そのひとつの候補として、「泰西王侯騎馬図屏風」を上げてみるのもあながち間違いではないでしょう。この絵の馬の存在感は、「ことごとく馬を描く」の伝承にふさわしいのではなかろうかと思います。
刀を抜いた「動の騎士」が蒲生氏郷ならば、刀を鞘に収めた「静の騎士」は前田利長というところでしょうか。
 そして、私は、新湊市博物館の松山学芸員さんからの案内で、さらに新たなる桃山時代の「馬の絵情報」を得ました。しかも、その絵は地元富山にあるというのです。
 南砺市福野町安居(やすい)の真言宗の古刹、弥勒山安居寺観音堂には、桃山時代に狩野永徳・山楽が描いたという「馬の絵」の絵馬が3枚奉納されています。狩野永徳・山楽といえば、先の長谷川等伯と人気を二分する桃山絵画の大家です。豊臣秀吉の御用絵師の座を争ったライバルどうしでもあります。そして、その絵馬には下カマチに車の輪がついており、なんと元は聚楽第長廊下の襖絵だったというのです。
 元和8年(1622)7月18日に三代藩主前田利常が、天徳院夫人の安産を祈願して、絵馬として奉納した旨が絵馬に付されている銘から分かっています。
 狩野永徳・山楽 ! 聚楽第長廊下の襖絵 !! すごい。
 これが、本当ならば、元和元年に破却が決まった後に、高岡城から安居寺に下げ渡しされた可能性もあります。つまり、聚楽第から前田利家、利家から利長、そして高岡城、高岡城から安居寺と、この「馬の絵」は転々縷々とするも、後世、高岡城等の記憶は欠落して聚楽第の名だけが伝承されているのでは。手ごたえは、大きいです。
 実物を見に、早速、安居寺へ。まわりに南砺の散居村風景の広がる農道をひたすら車で走りました。途中安居村の方に寺の在り処を聞くと、寺への道順とともに、寺に伝わるおもしろい歌も教えてくださいました。
 『うそかまことか安居の絵馬は、親は三歳、子は五歳。』
この不思議な歌の意味を、安居寺の御住職に伺ったところ、
 「親が三歳馬を子が五歳馬を描いた、つまり永徳が子どもの三歳馬を描き、弟子の山楽が親の五歳馬を描いたという言い伝えが、後世にこのような戯れ歌を生んだ。」と教えてくださいました。
 安居寺の絵馬は、ヒノキ材の板戸に金箔を押し、その上から黒い墨(?)で裸馬を描いたものでした。胴と首には網がかけられており、厩につながれる様子かと思われます。380年ほどの長い年月を経て、随分とすすけてしまい往時の輝きは失われて「聚楽第」のイメージからは程遠い観がありますが、金に塗られた馬の眼球は今もすこぶる迫力があります。横230センチ、たて150センチの同じ大きさのものが3枚。なるほど、絵馬としてはとても大きく、しかも下カマチには車。元は襖絵というのがうなずけます。ただし、たて寸法は天井の高さに合わせてカットされた可能性があるように思います。
安居寺の絵馬(県指定文化財) 
 安居寺は、天平時代聖武天皇の世に始まるというとても歴史の古いお寺。古くから観音信仰がさかんであり、今も「安居の観音はん」(本尊の聖観音木像は平安期の作で国重要文化財)の名で地元の人々に親しまれています。藩政時代には加賀藩の祈願所として前田家のの信仰を集めました。観音像を安置する観音堂は、慶長年間(1596〜1615)に,加賀藩の重臣岡島備中守一吉の夫人月清大姉の寄進によって建てられたものが,のち明和3年(1766)に再建され、明治3年(1766)に再々建されたと伝えられています。聚楽第長廊下の襖絵との伝承を持つ絵馬はこの観音堂の中にに架けられているのです。
 安居寺境内には、慶長4年(1599)の銘のはいった岡嶋備中守が寄進した灯篭もあります。この石灯篭は大陸伝来との伝承を持つ朝鮮式灯篭で、富山県内に現存する最古の年号も持つ貴重な遺物であり県指定文化財です。また、旧仁王像は慶長20年(1615)の胎内名を持っていたと伝えられるなど、この安居寺が慶長年間に一大整備されたことが察せられるのです。
 岡嶋備中守は、前田家が信長より越前府中を与えられたときからの家臣団「越前府中衆」と呼ばれる重臣のひとり。利家・利長親子とともに幾多の戦場を駆け抜けてきた古参家臣で、越中最前線の安田城(婦中町)の城代を務めた人物でした。また、元和元年(1620)大坂夏の陣の際には、利長無き後の高岡城城代を務め留守役をしました。そして、同年大阪の陣から凱旋した三代前田利常によって高岡城は破却。岡島備中が高岡城最後の城代であったこともここでは注目されるべきでしょう。

 散居村の田園風景を見下ろすこの静かな山寺で、聚楽第の長廊下を華麗に飾っていたと伝えられる襖絵が今も守り伝えられていようとは本当に驚きました。先ほどの戯れ歌が出来るほどに、大絵馬は地元の人々に親しまれ大事にされて受け継がれてきたのです。今も、受験の合格祈願や安産祈願に安居寺を訪れて、3枚の大絵馬に手を合わせる人は多いと聞きました。お願い事を書いて奉納する絵馬(左写真)にも、大絵馬を模した馬の絵が描いてあります。
 ふーむ、この大絵馬が・・・。絵の中の馬は、京都の聚楽第で繰り広げられた様々な人間模様を見つめ、そして高岡城で人生最後の5年間を送った前田利長の姿を見つめてきたのでしょうか。そう思うと感慨深いです。「うそかまことか」分からないところもありますが、この絵馬などかなり有力な候補でしょう。
高岡城の旅館の障壁を飾っていた「ことごとく馬を描」いた絵図とはどのようなものなのか、いろいろと想像してみました。皆さんはどんな絵だったと思われますか。「ことごとく馬」だけでは、なかなかその正体は分かりません。何か、よいヒントがあればぜひ当ホームページまでお寄せください。

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