氏郷と利長 銀鯰尾兜の武将
滋賀県日野町の蒲生氏郷像と高岡古城公園の前田利長像
 大仏殿石垣の石曳きでは、ライバル同士であった蒲生氏郷と前田利長ですが、二人はまた親しい友人同士でもあったようです。
蒲生氏郷は弘治2年(1556) 近江国蒲生郡日野に生まれ、一方前田利長は永禄5年(1562)尾張国荒子に生まれました。利長よりも氏郷のほうが6歳年上です。大仏殿建立が始まった天正14年(1586)、氏郷は30歳、利長は24歳です。氏郷が大仏殿の巨石の運搬に関ったのは、天正16年(1588)2月だそうですから、前田家の泣き石の運搬もこれを前後して行われたのでしょう。
 二人の関係をたどって見ると、まず、氏郷も利長もともに小田信長の娘を娶る義理兄弟。さらに、氏郷の娘は、利長の弟利政の元に嫁いでいるのですから、切っても切れぬ仲です。
 蒲生氏郷は、勇猛果敢な武将として知られています。大仏殿建立が始まった翌年、天正15年(1587)の九州攻めの巌石(がんせき)城合戦(福岡県田川郡)では、苦戦していた秀吉の命令を受け、難攻不落といわれた巌石城を攻め、見事落城させて勇名を上げました。この合戦では銀鯰尾(ぎんなまずお)兜の氏郷が、弾丸の飛び交う中、一騎先頭をきって敵陣へと突っ込みました。駿馬を駆りながら得意の矢を幾重にも放って進撃する若武者氏郷。この大胆不敵な勇姿を見た兵たちは多いに志気をあおられて、「氏郷殿に続け、遅れるな。」と後を追って大突進し、みごと巌石城を落としたのです。この合戦を皮切りに秀吉軍は勢いを得て、破竹の勢いで島津領へと南下したことは、戦国武将マニアには人気ある武勇伝。氏郷さん、まさにヒーローですねぇ。小心者にして、逃げ足だけは速いこの長兵衛とは雲泥の差。まっ、比べることもないか。
 この時、我らが利長様も3000人の兵を率いて九州攻めの巌石城にありました。利長にも次のような手柄話が残っています。巌石城合戦で軍功をあげた利長に、秀吉は、「さすがは前田利家の子じゃ。鷹は鳶(とび)生まぬわい。なはっはっはっはぁ。」と手放しで褒めたという。なんだか、父利家を褒めたついでに褒めたような感じでなくもない・・・話だけれど、地元の殿様自慢のひとつです。
 利長はこの時、氏郷の勇姿をまのあたりに見たのでしょうね。きっと、氏郷の姿に励まされ、おおいに尽力したことだと思います。利長は、実の兄のように氏郷を慕っていたそうですよ。
 二人は、戦国の世をともに戦い抜いただけではなく、茶の湯を介しての親交も深かったそうです。蒲生氏郷は千利休の七哲のひとりに数えられる知将ですが、利長もまた茶の湯への造詣が深く、利長を利休七哲のひとりに加える書もあります。二人はたびたび茶会にも同席していたようです。
 ふたりの銅像を見ると、奇しくもおそろいの銀鯰尾の兜を被っていますね。鯰は地を揺るがすパワフルな動物と考えられ、合戦の兜には縁起がよいとされていました。大地を揺るがし敵を蹴散らせというところでしょう。氏郷と利長だけでなく、前田利家も鯰尾の兜を愛用していました。利家は金と銀両方の鯰尾兜を複数所有していたようです。こうして見ると、兜のスタイルに何か同胞意識が込められているような気もしますね。
伝前田利長着用鯰尾兜
富山市郷土博物館蔵
 現在、伝前田利長着用の銀鯰尾兜(春田勝光作)が富山市郷土博物館に所蔵されています。この兜は、外鉢高が127.5cmもあるので、これを被った利長は身の丈3メートル近くの大男となり、馬にまたがればまさに戦場の怪物です。敵への威嚇の効果は絶大だったでしょう。前田利家着用と伝える鯰尾兜(長烏帽子形兜とも)は、金沢尾山神社と前田育徳会に所蔵されています。
 当時の武将たちの間では、鉄製の鉢を土台にして革や和紙で誇張した様々な形の変わり兜が流行していました。鯰尾のほか、長烏帽子形・唐人笠形・頭巾形など強く個性を打ち出した変わり兜があり、加藤清正の長烏帽子形兜(愛知県徳川美術館蔵)・黒田如水の合子兜(岩手県盛岡市教育委員会蔵)はその代表作です。兜は、戦場における武将たちのトレードマークであり、一種のファッションでした。
 さて話は変わりますが、蒲生氏郷には次のような有名な逸話があります。ある時、蒲生氏郷邸で、氏郷・前田利長・細川忠興・上田主水らが雁鍋を囲んでいた時、「秀吉公の次に天下を取るのは誰だろう」と話題になりました。すると、細川忠興が、「それは、加賀大納言又左衛門、利長の親父様だろう」と答えました。次に主水が、息子利長がそこにいるにもかかわらず、「もし利家様が亡くなられたと きには誰が天下を取るか」というと、それまで黙っていた氏郷が間をいれず「そのときは、この氏郷が取り申そう」と答えたそうです。利長はどんな思いでこの会話を聞いていたものでしょうか。黙って雁鍋をつつくしかなさそうです。この話の信憑性はさておき、豊臣政権の新世代の中で、氏郷がポスト・リーダー と有望視されていたことが伺える話として面白いですね。
会津若松鶴ケ城
現在の鶴ケ城は昭和に建てられたもの
 近江国日野の蒲生村の武将の家に生まれた氏郷は、織田信長の寵児として頭角を表し、豊臣秀吉によって、南伊勢12万石の領主に取り立てられ松坂の城下町を開きました。九州攻め、小田原攻めと軍功著しく秀吉の天下統一に尽くした蒲生氏郷は、次に東北の黒川42万石を与えられ移封となります。黒川を会津若松と改め、城下の整備にかかるうち、封の加増があって92万石を有する大大名となりました。氏郷の死はそんな矢先のこと。
 会津若松には、見事な穴太衆の石垣を配し七層の天守閣を持つ若松城が完成し、城下町の町割りも整ったばかり、会津百万石の夢も半ばの藩主氏郷の急死に会津若松藩は動揺しました。一部には、「知力と武勇に秀でた氏郷を秀吉が危険に思い暗殺したのではないか」との風聞も聞かれる中、氏郷が残した13歳の嫡男秀隆の家督相続には、前田親子が親身になって世話をしたそうです。そして、この蒲生家の相続問題があの豊臣秀次事件の直接の原因となろうとは・・・。世の定めは計り知れないものです。

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