築城石曳きの牛
大坂城天守閣博物館所蔵石曳図屏風(固く複写を禁止します)
 この屏風絵は、お城の石垣の石を曳いている様子を描いたとても珍しいもの。描かれている人物たちは、皆とても気合が入っています。「ファイト一発!」ってとこですか。そして中央に描かれた黒牛のなんと力強いこと。近世の築城普請(土木工事)の資材運搬に、牛の力は重要でした。秀吉の大坂城築城の時などは、近畿地方の牛だけでは足らず、中国地方からも多くの牛が徴集されたそうですから、いかに多くの牛が築城普請の現場に用いられていたかが察せられます。
 ところで、この石はどこのお城に運ばれていくのでしょうか。
大坂城天守閣博物館所蔵のこの「石曳図屏風」の右下には、「江州佐和山普請 伊井采女石曳之図」という墨書がありました。佐和山とは彦根の旧名。そして伊井采女(いいうねめ)は、彦根藩主の祖、伊井直政(いいなおまさ)の養子となった人物だということが分かり、彦根城築城の際の石曳きの様子を描いた屏風に間違いなしと判明したわけです。すると、この強そうな牛は滋賀県産の近江牛。なるほど、納得。
 
 近江牛は、現在食用とし有名ですが、古来より近江地方では牛による荷物の輸送が大変に発達しており、特に大津から京への物資が集散する大津逢坂関(おさかのせき)の牛は、働き者の牛として有名だったそうです。丹波地方の牛曳き歌の中には「牛になっても 大津の牛となるなよ」というフレーズがあるほどに、この地方の牛による運搬は、稼動率が高かったようです。
 ここで、越中の牛についても少しお話したいと思います。
時代をさかのぼる倶利伽羅合戦(1183年)、木曾義仲は越中と加賀の境、倶利伽羅峠に500頭もの屈強な牛を陣内に集め、その角に松明をくくりつけて山の上から平家軍に向って追い落としました。世に言う「火牛の計」の戦法です。義仲はこの攻撃によって平惟盛(これもり)を破り、京に攻め上ったのです。義仲がどのようにして、500頭もの牛を倶利伽羅峠に集めたのかは定かではありません。当時の越中は野生の牛が群れをなし草をはんでいるような、牛の宝庫だったのでしょうか。
射水郡小杉町下村の牛乗式
 それから、高岡市の近隣、射水郡小杉町下村には、牛にまつわる興味深い民俗が伝承されているのですよ。下村加茂神社の春祭りで行われる「牛乗式」は、別名「牛潰し」と申しまして、抵抗するあばれ牛を村の屈強な若者たちが力づくで地面にねじ伏る神事です。牛と若者たちとの迫力ある格闘が毎年話題となります。牛の上に乗っている武将は、「越中の闘牛士」というところでしょうか。本場スペインの闘牛も顔負けのすごい祭りでしょ。この牛乗式は日本で唯一富山にだけ見られる奇祭です。牛乗式には牛を地面に伏せることで五穀豊穣を大地の神に祈る意があるそうです。いつの時代に始まる儀式なのか定かではありませんが、そのルーツは武将が出陣の時行った戦勝祈願の儀式にあるとも、軍事訓練を兼ねた武士たちの余興にあるとも、牛を生け贄とする地鎮祭にあるともいわれています。越中の牛文化には、奥深いものがありそうですね。
 高岡城の築城でも、越中牛の活躍はめざましいものだったでしょう。人々の威勢のよい掛け声や仕事歌とともに、牛車のきしむ音や越中牛たちのいななく声も随分と聞かれたことだと思います。ちなみに、かくいうこの長兵衛は、越中産の丑年生まれでございます。

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