守山の猿まわし
 名前に猿のついた猿千代君のお話が出たついでに申しますと、その昔、守山の名物といえば「猿まわし」が有名だったようです。江戸時代のこと、「日光猿軍団」ならぬ「守山猿軍団」とも言うべき、猿の曲芸集団が守山を拠点に加賀藩全域を遊芸して回り、金沢でもたいそう人気を博していました。特に、金沢の武家の正月の風物として歓迎され、正月の猿芸を所望すると「馬から落ちない」「馬術が上達する」と縁起担ぎの吉例として定着していました。そのようなわけで、金沢の武家さんたちは、正月には自宅の馬屋の前で「守山の猿まわし」を見るのを習いとしていたのです。この「守山の猿まわし」なるものが、いつの起源であるのかといえば、一説には利長の守山在城以来であろうとのこと。
 そういえば、御車山にも猿がいますね。利長は猿にひとしおの愛着を持って猿芸の奨励をしたのでしょうか。二上射水神社には日吉社が祀られていますので、或いはその関係でしょうか。日吉社の神の使いは猿です。日吉社に奉納する猿芸が守山猿軍団のルーツだったのかもしれません。
 先ほどの「慶長11年越中国守山町屋敷之御帳」にも「さるや」なる屋号がありましたが、守山地区の寺院に残る古い過去帳を見ると「猿屋」の屋号の家が4軒あり、これらの家が世襲して猿まわしの遊芸をしていたものらしい。守山猿軍団の中にも日光の例に見るように「どの家の猿芸が総本家」と争いもあったかもしれませんね。
小馬出町御車山の猿
この猿にも不思議な説話がある。御車山の猿を本物そっくりのを作ろうと人形職人は実物の猿をモデルに製作していた。この人形の猿に目を入れ完成したその瞬間、モデルの猿は死んで息絶えたそうだ。ホントかな。
 さて、利長公と猿にまつわる不思議な話をひとつ。京都の妙心寺塔頭の龍泉庵に所蔵されている、長谷川等伯の筆の「枯木猿猴図」にまつわる話です。「この猿猴図は、もともと前田利長の所有であった。ある夜のこと、眠っている利長の髪をつかむものがいる。利長は、驚いてはね寝起き、「曲者め」と短刀でつかんだ腕を切り落とした。「何者ぞ」と、灯りをかざして見ればなんと、等伯の画中から抜け出た猿であった」という話。これを世に「腕切りの猿」いうそうです。高岡城の広間には、長谷川等伯の描いた襖絵があったという伝説も地元には伝わっており、この「腕切りの猿」の話は、ひょっとすると利長が高岡城に在城したときの所産であるかも知れず、高岡市民としては興味深いところです。

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