猿千代君
前田利常画像
<那谷寺(なたでら)所蔵>
 前田利長は、13年にわたりこの守山城の城主でしたが、その間、利長は戦場にあるか伏見・大阪の住まいにあることが多く、守山城は城代の前田長種に任されていました。『利家とまつ』では、辰巳琢郎さんが長種役を演じていましたね。長種の妻は、利家の長女幸(こう)です。前田長種夫婦は、前田利家の側室の子 猿千代君を預かって守山城で養育しました。猿千代君は二上山の守山城で元気に育ち、体格もよかったようです。前田利家は、慶長3年(1598) 3月、還暦を迎えた年に初めて猿千代君と対面。利家が.療養のため草津温泉に出向いた途中に、猿千代君と会う機会を設けたのでした。我が子を抱き上げ着衣の脇の下から手を入れて背をなでた利家は、「早くも太りたるかな」とその健やかな成長ぶりを喜んだと伝えられています。猿千代君が5歳のときであったそうで、利家と猿千代君との対面は後にも先にもこの一度限り。晩年、病床にあった利家が正室まつに書き取らせたという有名な「前田利家遺言状」の中では、猿千代君は「御さる」と呼ばれています。利家は、猿千代君を「御さる」のニックネームで呼んでいたようです。
 猿千代君が、長じて加賀藩3代藩主前田利常となったことは、ご存知のことと思います。この対面のくだりは、利家の父性愛の滲むよい話として、また3代利常の幼少期からの天賦の資質を伝える話として、地元高岡の歴史好きには人気のある話です。
 猿千代君が、立派な体躯に育ったのは、二上山近辺の恵まれた自然と豊かな収穫物のおかげであると高岡の人たちは自慢します。また、逆に冬には雪深く寒風の吹きすさむ二上山の山中で育ったことが猿千代君を鍛えたのであるとも。
 そして、私が思うに、もうひとつ加えて守山城下町の室屋が作った米こうじの味噌をたくさん食べて、猿千代君は大きくなられたのでは無かろうか。そのように、ひとり長兵衛は信じておりますよ。少し、味噌の宣伝が過ぎたでしょうか。

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