守山城下町の屋号
 さて、高岡では「慶長11年越中国守山町屋敷之御帳」という守山城下町に関する大変に古い資料が、ある旧家に残されていました。利長が家督を譲り富山城に隠居したのが慶長10年(1605)ですから、この史料はその翌年、言い換えれば高岡開町の4年前に書かれた史料です。二上の守山町から富山城下へ、人の移動があり規模の縮小はありましたが、町は機能していました。「守山町屋敷之御帳」は、「西町」と「かわらけ町」の町人たちの屋号と人の名・家の大きさ・地子米高を記す「納税者元帳」といったもの。「明屋敷」が目立ち町の衰退の兆しを隠すことが出来ませんが、それでも西町87軒、かわらけ町62軒、計149軒の家に人が住んでいました。守山城下町にどのような町があり、人口は何人で町域がどこまでの範囲に及んでいたのかは定かではありませんが、この2つの町の「守山町屋敷之御帳」は当時の町の様子を伝える貴重な資料であると思います。
 この「守山町屋敷之御帳」に出てくる屋号に注目してみました。
職業屋号 むろや・あぶらや・あめや・しほや・つづらや・らうそくや・ひものや・御座や・ことや・さるや・こうや・桶や・かちや・大工・つつや
地名屋号 たかまつや・おやまや・いせや・まっとうや・ひみや・くろだや・はしつめ・中町・いしはし
寺社関係 せんしゃう寺(専称寺)・長ぐわん寺(長願寺)・しょうねんじ(称念寺)伊勢屋敷・寺屋敷・こんどう(金堂)
意味不明 市姫や・せうげん・あか・むま・おりとや
 二上の守山町には、「室屋むろや」がありました。守山町の家々では、室屋の作る米麹で味噌づくりやどぶろくや甘酒やこうじ漬けなどが作られていたのでしょうね、きっと。桶屋もありますから桶に味噌を仕込んでいたのだと思います。檜物座があったということですから、曲げ物作りは盛んに行われていたと思われ、そうすると、もしやこの頃から北陸の麹作りに独特の容器である「曲げのこうじおり」が存在したのではと期待しますね。
    
曲げのこうじおり
 他にも、油屋・蝋燭屋・御座屋・つづら屋・さる屋・紺屋・飴屋・塩屋・鍛冶屋などの職業屋号があります。「油屋」の油は、暖房用や食用ではなく、灯火用です、念のため。「蝋燭(ろうそく)屋」の蝋燭は、庶民の家で使われるものではなく、主に城内か寺院の仏前用です。「御座(ござ)屋」は敷物の御座職人の家でしょうか。御座もこの時代では庶民の物ではなく、城内か寺院で使われるものだったようです。寺院の多い町らしい産業です。「つづら屋」のつづらは、衣服などを入れる蓋(ふた)付きのカゴのこと。昔は葛藤(ツヅラフジ)や竹皮を網代編み(あじろあみ)にして、表面に紙を貼って柿渋・漆などを塗って作っていました。二上山周辺には竹林が広がっています。この竹林がいつからのものなのか私にはわかりませんが、つづら作りは地元の竹を生かした守山城下町の地場産業であったと思われます。
 「紺屋」は、今も残っている「紺屋町」との関連を思わせますね。小矢部川流域は古くからの麻布や麻糸の産地でしたから、守山城下町は麻製品の集散地として栄え、麻布や麻糸の染色がさかんであったのかもしれません。布の集散地としての機能はそのまま高岡に譲渡されました。「あめや」の飴は、菓子・甘味料というよりも薬種のひとつと考えたほうが妥当でしょう。この時代、 甘味料は柿の皮やアケビ・甘草など自然の産物からとっていたようです。  
 「しほや」は言うまでもなく「塩屋」。能登塩の起源は古くは何と古墳時代の頃から製塩が行われていました。能登塩は、めまぐるしく変遷した能登地方の支配者の主要な財源でしたが、三代藩主前田利常の頃より生産・販売が加賀藩の直轄事業となったとされています。加賀藩による塩の専売制度の確立は、他藩に比べ著しく早いものです。
 能登で出来上がった塩は全て藩の管理下にあり、自家消費さえ許されぬほどの厳しい搾取が行われました。藩政時代の高岡での塩の流通を例に見ると、藩から払い下げられる塩は木町の特権的船主によって輸送され、先ず高岡城内にあった御詰塩蔵に全て入庫された後、御塩問屋へ、小売塩屋へ、町人へと渡っていました。この高岡城内の御詰塩蔵は長さ50間の長屋であったといいますから、金沢城に現在復元された「五十間長屋」に匹敵する大きさの建物が高岡城内の塩蔵であったというわけです。加賀藩の塩専売制がいまだ整わない守山城下町の時代、塩の流通はどの様であったのでしょう。
塩売りが石となった塩売石
 
阿国像
 高岡には「塩売石」という昔話が伝承されています。能登から塩売りが牛に能登塩を積んで五十辺(いからいべ)という村に来るのですが、この塩売りはとんでもない悪徳商人で村人に「塩の大安売りだ。価格破壊だ。」といって安価で塩を販売するも、その塩たるや石灰混入のいかさま商品。このような悪行の末、天罰が当たった塩売りは石に変えられてしまうという話。守山城下町にも能登の塩売りが牛の背に塩を積み、能登から幾山越えて塩を運んできていたのでしょうか。それとも、専売制に近い制度が既に導入されていたのでしょうか。興味深いところです。
 不思議な屋号もあります。「ことや」とはなんでしょう。楽器の琴を作る家でしょうか。当時は庶民芸能がとても発達した時代でした。出雲の阿国という女性が中心となって、京都四条河原で「阿国歌舞伎」を始めたのは慶長8年(1603)のことだと言います。この年をもって歌舞伎が誕生したとされているのです。阿国は、首からキリシタンのロザリオをかけて男装で踊るという斬新な舞踊で京の男たちを魅了しました。戦乱に明け暮れた男たちにとっては、まさに女神だったでしょうね。また、風流踊り・念仏踊りなどが大流行し民衆が熱狂乱舞した様子は、慶長9年(1604)秀吉の七回忌の祭礼の様子を描いた豊国祭礼図に顕著です。「ことや」もそうした当時の音楽芸能の流行を背景に、琴作りの専門職として成り立っていたものと思います。それにしても、琴屋とは、守山城下町にはなかなか風雅な産業があったものですね。守山城下町の雅さが感じられるところです。「二上山大権現由来書」という地元旧家に伝えられる古文献によるとかつて古い時代には毎年3月7日から13日の7日間に渡り、二上大権現の講堂前で神事として「楽」の奉納があったそうです。この「楽」の楽器には琴も加わっていたことでしょう。今で言うなら「女子十二楽坊」のような楽器演奏者集団が守山城下町には所在していたのかも知れません。
 「さるや」も不思議な屋号です。これは、守山に独特のとても珍しい屋号でしょう。後にも述べますが、守山には猿芸を生業とする家があったのです。守山の猿芸は時代を下っても盛んで、加賀一円で人気を博していました。今でも守山には「さるや橋」と呼ばれる橋が架かっていますが、猿芸の「さるや」の名残なのでしょう。「さるや」も「ことや」と同様に芸能ゆかりの職業として注目されます。
 「つつや」とはなんでしょう。つつやは、鉄砲鍛冶か武具商人の家でしょうか。聞く所、今でも銃器販売業者を「つつや」と呼ぶその筋の方がおられるとか。戦国時代の城下町において、武器製造は町の主要産業でした。現存の守山の地名にもそれから高岡にも「鉄砲町」の名が残っています。
二上から木町方向を見る。江戸時代を通して高岡の水上 輸送の拠点として繁栄した木町。
かつては、橋が無く渡し舟による往来だった。
 「大工」の名もあります。当時の大工は、先にも触れましたが、領主とともに「戦場各地を転戦してきた、いわば工兵部隊」であり城郭建築のエキスパートでした。高岡城築城の際に、最初に作られた町「木町」は、守山城下町から小矢部川を渡った対岸に設けられましたが、守山城下町から対岸の木町へと材木商や大工たちが転居してくる姿は想像に難くありません。守山城下町と高岡の町づくりとの連続性が感じられるところです。
金沢市にある尾山神社 前田利家を祀る
明治8年(1875)建立の神門
 地名屋号を見ると「尾山や・松任や・高松や」は現在の石川県の地名屋号です。
 「尾山や」は現在の金沢出身の商人。尾山は金沢の別称です。庶民レベルでは尾山と金沢と、どちらが一般的な呼称だったのか・・・。守山城下町だけでなく高岡でも、金沢ゆかりの商人は「尾山屋」の屋号で呼ばれており、「金沢屋」という屋号は藩政時代を通して存在しませんでした。明治にいたっても高岡の人は、金沢を尾山と呼んでいました。前田利家が秀吉から能登・北加賀2郡を与えられ、金沢にあった一向衆の御坊を居城としたのは天正11年(1583)のこと。
このとき、嫡男の利長は越前府中3万3千石から松任4万石へ移封になりました。利長は松任城主として2年間居城し、その間松任城の城郭の整備にも尽力したとされます。松任は利長とゆかりの深い町なのです。「尾山や」「松任や」はその時代らの縁故の商人でしょうか。
 「高松や」の能登高松町も、前田家とはゆかりの深い町です。天正12年(1584)佐々成政との末森合戦でのことです。前田軍が宇ノ気川を渡ろうとした時、高松の百姓、桜井三郎左衛門が利家のもとへ駆けつけ、佐々軍の位置とこの先に神保隊が待ち受けていることを未然に知らせました。前田軍は、進行先を急きょ変更、三郎左衛門の案内にて山越えで佐々軍を迂回し、海岸沿いを猛ダッシュで進んで押水今浜に到着。佐々軍を背後から攻め、大どんでん返しで末森城の救援に成功したのです。この末森合戦に、利長は松任から駆けつけ父利家の軍に合流しています。この時の佐々軍後退は、前田家の加賀百万石支配への重要な布石ともなった一件でした。大河ドラマ「利家とまつ」では、この場面でテレビに釘付けとなった方も多いのでは。ところで前田家を勝利に導いた高松町の三郎左衛門さん、このときの手柄によって子孫代々明治まで続いて税金が免除されたというのですから、うらやましい話。守山城下町の西町には、「高松や」の屋号の家が二軒もありました。高松の三郎左衛門さんの前田家に対する助力は偶然のものではなく、元々前田家は高松と何らかの縁故を持っていたのかもしれませんね。
 このように尾山・松任・高松はともに、前田家の北陸支配の進行過程で重要な意味を持った町です。利長が越中三郡を与えられ守山を居城としたのは末森合戦の翌年天正13年(1585)こと。尾山・松任・高松の町からの商人が守山城下町に揃って居住していることは意味深いです。
 「黒田屋」はおそらく、現在の高岡郊外にある上黒田・下黒田の辺りの出自でしょう。黒田村は、いつの時代の話かわかりませんが、肥前天草の人、黒田某・秦某の両人が流浪の末たどり着いて開いた町だと言われています。今でも黒田には秦・畑の名前の家が多く、肥前天草の秦某の末裔であろうとのこと。前田氏の九州攻めとの関連を思わせる興味深い伝承です。この黒田屋も或いは、九州縁故の商人ではないのかと関心をそそられます。
大伴家持の子孫、関氏が奉仕していたという二上射水神社。射水神社が高岡古城公園に移されたのは、明治4年(1871年)のこと。
 また、「伊勢屋」は三重県の伊勢地方ゆかりの商人でしょうか。遠隔地の地名を屋号とする商人がいたことに驚きます。「伊勢屋敷」というのもあります。「伊勢屋敷」とは何なのか。幾つか、予想してみると、先ず、伊勢神宮の御師(おんし)の屋敷だったことが考えられます。室町時代後期の頃から、伊勢神宮の御師たちは、伊勢神宮の信者獲得の布教を全国各地で行っていました。伊勢から御師が来て加持祈祷をおこない伊勢暦を配達し、信者たちを伊勢詣(いせもうで)に勧誘し、旅行添乗員の役割もします。「伊勢屋敷」は伊勢の御師の出張所だったのでは。
また、「伊勢」という人物の屋敷だったとも考えられます。前田利長の書簡の中に二上山の土豪の関豊後守宛てに送ったものがあるのですが、その書簡の宛名には「いせことぶんごどのへ」と書かれています。土豪の関豊後守がどのような人物であったのかは判然としませんが、通称「いせどの」だったようです。伊勢屋敷は或いは、この土豪の屋敷でしょうか。
 この「守山町屋敷之御帳」から、守山の城下町に住んだ人々の生活が少しですが伝わってきました。
 慶長14年(1609)高岡に城下町が開かれると守山城下町から、17軒の家がまとまって移住し、高岡に今の守山町ができたそうです。高岡の守山町に今もある横町屋という屋号の家などは、「先祖が守山城の横の町に住んでいたので横町屋という」と屋号の由来を伝えておられます。400年以上前の守山城下町時代からの屋号を伝え続けるなんて全くすごい話しです。まさに、高岡はタイムカプセル。
また、高岡の木町は、富山木町と守山木町の人を呼び集めて作ったと伝えられています。その他にも、守山城下町から高岡に出来た新しい城下町に人がぞくぞくと移り住み、守山城下町はだんだんに寂れていったようです。40ケ寺もあった寺も次々と高岡や金沢に移転しました。この資料に見られる専称寺・長願寺・称念寺ほか、いくつもの寺が守山城下町から高岡城下町に移転しています。
 二上守山町は一旦寂れましましたが、そのままゴーストタウンになったわけではなく、その後、交通の便に優れているという地の利を活かし、駅舎が置かれ宿場町としての道を歩むこととなります。
 ここで見た守山城下町の屋号は、高岡に残る屋号に比べると随分種類が少ないですが、「守山町屋敷之御帳」は二上の守山城下町にいくつかあった町の中の2つの町、西町・かわらけ町の事情のみを伝えるもの。ごく一部です。他の町には、まだ他にいろいろな職業屋号・地名屋号が存在したに違いありません。例えば、米・麻布・染色・材木に関る屋号や、前田家と関係の深い尾張・近江・伏見・大坂・若狭・能登などに関る地名屋号、地元の小矢部川河岸の村々に関る地名屋号など、バラエティ富んだ屋号が存在したのではないでしょうか。
 考古学の領域でも守山城の姿はだんだんと明らかになってきています。2003年11月3日付けの北日本新聞では次のような報道がありました。
「高岡市の二上山にあった守山城が、南北30メートルの石垣を備えていたことが分かった。同城には14.5メートルの石垣が残っていることが確認されていたが、高岡市内の専門家らでつくる民間グループ『二上山総合調査研究会』(邑本順亮会長)の調査で、現存する石垣の北側に、崩落した石垣が多数散乱しているのが見つかった。同研究会は「守山城は堅固な石垣をもった越中三大山城の名にふさわしい城であることが裏付けられた」としている。」
 また、近年行われている測量調査では、守山城の城郭は想像以上に広い範囲に及んでいたようです。前田氏以前の神保氏張や佐々成政による築城や城下町造りについても今後明らかになる機会があるかも知れません。
 更なる考古学調査と、新たな資料発見が待たれるところです。
城山に残る石垣の石

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