守山城下町の大工
 さて、驚くべきことに、この守山城築城に関ったという経歴を持つ建設会社があるんですよ。ちょっと、耳を疑うでしょ。加賀藩が守山城を修築したのは400年以上も前のことなのですから。
 守山城築城に関ったというのは、東京に本社を構える建設会社、松井建設株式会社です。松井建設の創業は、古く天正14年(1586)、今から420年ほど前、織田信長が暗殺された本能寺の変が起こる2年前のことです。現在は、資本金40億円 全国に6支店13営業所を持つ一部上場の近代企業ですが、そのルーツは加賀藩お抱え棟梁松井角右衛門を親方とする大工集団「松井組」です。
 松井建設ホームページには、次のように書かれています。
 「松井建設の歴史は1586年(天正14年)初代松井角右衛門が加賀第2代藩主前田利長公の命を請け、越中守山城(富山県高岡市)の普請に従事したのが始まりである。1593年には伏見城普請のため京に上り、また、このころから兵火により焼失した井波町の瑞泉寺再建に携った。」
 松井建設のスタートは守山城普請であったわけですね。高岡市民の私にとっては、とても感動を覚える話しです。
 高岡城の築城にも松井組は関っていたのでしょうか。興味深いところです「伏見城の普請のため京都に上った」とありますが、「高岡城の建造物には伏見城にあった豊臣秀次の邸宅の遺構が使用された」という伝承が高岡にはあります。伏見城で豊臣秀次の邸宅を建てたのも松井組だとすると高岡城への移築にも関わった可能性は大きいかもしれませんね。
金沢城菱櫓 と瑞龍寺山門
平成の大修築には松井建設が携わった。

―高岡市立博物館企画展「百万石の大工さん」より―
  加賀藩における大工さんの歴史は古く、初代前田利家の金沢入城の翌年(1584年)、金沢に「大工百余人」を招いたとの記録があります。彼らはそれ以前から利家に従って各地を転戦してきた、いわば"工兵部隊"が中心でした。
 加賀藩の大工集団は当時の建築二大流派である唐様(禅宗様)の「建仁寺流」と和様の「四天王寺流」を中心に、越中の井波や大窪(氷見)に屋敷地を拝領した集団などからなっており、藩は彼らに互いに腕を競わせ、幕府と肩を並べる程の高い建築技術水準を誇っていました。国宝・瑞龍寺の棟梁として名高い山上(やまがみ)善右衛門嘉広(1598・99頃〜1680)は、建仁寺流(17代)を受け継ぎ、加賀藩御大工の開祖となった人物です。

 松井角右衛門率いる松井組は、井波の大工集団として活躍しました。井波には優れた木彫で有名な瑞泉寺があり、井波は今も「木工の里」として知られています。
 現在、松井建設では伝統的建築物部門を立上げ、小田原城天守閣復興・中尊寺金色堂新覆堂造営・皇居半蔵門坂下門乾門の修復・鎌倉建長寺三門修復、熊本県山鹿市の八千代座修復・熊本城戌亥櫓西出丸塀復元など、全国の名のある歴史的建造物の修復復元を手懸けてこられました。また、金沢城石川門修復・高岡山瑞龍寺山門修復・金沢城菱櫓・五十軒長屋復元など旧加賀藩ゆかりの普請工事を施工したのも松井建設。400有余年の伝統に培われた「加賀の大工」の伝統的建設技術の維持発展に、松井建設では今日も貢献し続けておられるのです。 
 因みに、高岡古城公園の中にある射水神社は明治35年(1902)に建てられたものですが、建築家は法隆寺「エンタシス論」で有名な伊東忠太、棟梁は松井建設株式会社の先代社長・15代松井角平のコンビで造営されたものです。
 余談になりますが、私もこのお社にて結婚式を挙げまして、はや20年、夫婦喧嘩を繰り返しながらも何とか今日に至っているわけです。
※勝手ながら敬称を省略させていただきました。
高岡古城公園内の射水神社 明治35年の造営

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