守山城のこと
 二上山にあった山城・守山城とそのふもとに開けた城下町のことをお話しましょう。
 高岡の北西には、二上山(ふたがみやま)という300メートルに満たない山があります。私が小学生の頃は、273メートルという二上山の高さを、フタ(2)ナミ(7)サン(3)などといって言って覚えましたが、この40年ほどの間に二上山が隆起したのか、今では274メートルだという。「そんな馬鹿な」と思いいろいろ調べてみましたが、あらゆる資料に274メートルとされていました。たった、1メートルでムキになることもありませんが、時移ろえば山の高さまで変わるのですねぇ・・・。これには、驚きましたね。
 この二上山は、万葉集にも読み込まれています。
玉くしげ 二上山に 鳴く鳥の 
  声の恋しき 時は来にけり      大伴家持
小矢部川から二上山を見る
大伴家持像
大伴家持が越中の国守として赴任したのは、天平18年(746)。5年間の滞在中に多数の優れた歌を残した。
 「玉くしげ」という枕詞のとおり、二上山は神が降り来る神聖や山だったのです。40年で1メートル高くなるのですから、そりゃまさに神秘の山ですね。
 この二上山の頂上のちょっと削れたように見えるところに守山城はありました。築城のため人工的に削ったと言われています。ですから、もとは先の尖った円錐形の山だったのであり、大伴家持が見ていた二上山は今とは少し違った形をしていたのです。
 守山城があったという頂上の平地は、今でも城山と呼ばれています。ここからの展望はすばらしいですよ。立山連峰・富山平野・日本海を一望にできるのです。敵の動きを一目にできるこの山城は、戦国の世を生きる治世者にとって、統治には絶好の場所だったでしょうね。
 城山にある守山城跡の案内板には、次のように書かれています。
「守山城はまた、二上城、海老坂城、とも呼ばれています。 越中平野を一望に見下ろし、山高く道険しく前方は小矢部川、後方は氷見の湖水にはさまれた国中随一の要害であり、築城時期は明らかではありませんが南北朝末期(1371)に南党の桃井直常が石動山天平寺の衆徒としめし合わせて、越中守護斯波義将の本城守山を攻め落としたと歴史の中でいわれていますのでその創設は相当古いものと思われます。後に神保氏張や佐々成政が在城したが天正十三年(1585)前田軍が攻め落とし、秀吉から賞賜されて前田利長の居城となりました。 慶長二年(1597)利長は富山に城を築いてここを去り、以後前田対馬守長種が居守いたしましたが城下の寺院や商工業者は続々富山に引き移り、守山城や城下町は急速に廃れていったといわれています。現在城郭の全貌は明らかではありませんが、空濠・石垣・通路などが部分的に残っているほか、重臣たちの邸跡も地名に名残りをとどめています。」『守山城跡案内板』より
二上山山頂から立山連峰
美しい郷土の風景を撮り続けておられる桂井正樹さん(高岡市在住)の作品。
社長あいさつの『富山湾の日の出風景』も桂井さんが撮られたもの。
 前田利長は、13年の間この守山城を居城としていたのです。
 守山城は、加賀・越中・能登の加賀藩三領のほぼ中心部に位置し、また、伏木・六渡寺・放生津の湊からの海上輸送・庄川・小矢部川の河川輸送、北陸道の陸路をも掌握できる要所。特に小矢部川の流域の古い時代から開けた豊潤な穀倉地帯を統括するには絶好の城でした。
 この守山城から真下に見下ろす関野原と呼ばれた土地に「高岡」を築いたのは、こうした統治のための諸条件をそのまま高岡にシフトさせようとしたからにほかなりません。
 加賀藩主となる前の13年間、二上山の守山城に居を置いていた利長にとって、守山城から真下に見下ろす関野原は大変に馴染み深いよく事情を周知した地であったと思います。利長には、地の利を生かしきる策略もあったでしょう。また、守山城主時代からすでに、この地の土豪や有力商人たちと縁故も生まれていたものと思います。
蛇行して流れる小矢部川。流域は豊かな穀倉地帯
地元に龍や大蛇の伝説が多いのも分かる気がする
二上山からの風景

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