高岡開町100年前のこと
利長坊が土中入定した塚だというポンポン山
(高岡市古定塚)
高岡には、高岡城ができる100年前の話というのが伝わっています。ですから、これから申しますのは今を去ること500年も前のお話です。
その昔、本明院利長(りちょう)坊というひとりの行者がいた。あるとき利長坊は、
「私は、今より100年の後、再び生まれ変わって、この地に現れるであろう。そして、この地の君主となって人々を幸福に導くであろう。」
そう言うと、小高い丘の頂きに穴を掘って、土中にひとりが座して入れるほどの小さな部屋をこしらえた。そして、その土中の部屋に入ると小さな空気穴だけを残して上から土を覆い、2度と出られないようにして生きながら仏となる修行に入った。
それから数日間、穴の中からは、利長坊の打つ鉦(かね)の音と読経の声と、そしてポンポンと打つ太鼓の音が響いていたが、徐々にその音は弱まり、ついには聞こえなくなった。人々は、利長坊が浄土へ行き仏になったと信じ、小高い丘に向かい手を合わせ拝んだ。
利長坊が生きながらに仏となった丘は、「入定塚(にゅうじょうづか)」と呼ばれた。
(高岡市中川 熊野神社に伝わる伝承、『高岡の伝承』参考)
入定(にゅうじょう)とは、入禅定(禅定に入る)の省略で,悟りの境地に達することをいうそうです。それから転じて,高僧の死を入定というようになったとのこと。ですから、入定塚とは、悟りを開いた僧の墓という意味です。
小さい頃、初めてこの話を聞かされた時には怖かったですね。この話には、まだ後があって、利長坊の入定塚からは夜もふけた暗闇の中、時折低い読経の声とともに「ポンポン」と太鼓を打つ音がする、それでいつしか人々は「ポンポン山」と呼ぶようになったというのです。
この利長坊説話は、高岡古城のすぐ側にある中川熊野神社に伝わるお話。
おー、怖い。夜中に土の底から死んだ利長坊の読経の声と打つ太鼓の音なんて勘弁してくれ。ちょうど実家の近くには、熱心な法華信者のおばあさんがおられ、夜な夜な太鼓を打ちながらの読経の声が・・・それが私の想像を更にリアルなものにしていたのです。でも、ポンポン山なんていう、なんとなく愛嬌のある響きの呼称に少し救われていた我が幼年期でした。
さて、この利長坊は、「としながぼう」ではなく、「りちょうぼう」と読みます。
前田利長公を坊さんにしたような名前の利長坊が入定した100年後に現れ、高岡を支配したのは言うまでもなく前田利長公。まったく出来すぎた話しもいいところ。利長坊なる何やら空々しい名前には、民間伝承ならではのおおらかなユーモラスを感じますね。
「前田利長は、本明院利長坊の生まれ変わりなり」「高岡を幸福にする救世主なり」とこの説話は主張しているわけです。しかも、100年も前みごとに予言されていたことであるとなれば説話は神秘性を帯びてまいります。そして、前田利長による高岡(関野)支配は、あらかじめ定められていた約束事、有難い「神託」であると支配の正当性が強調されます。政治的説話であるわけですね。説話は、前田支配の100年前の話だといっていますが、前田支配が進行する過程で統治を正当化するために生み出された造作でしょう。
利長坊のポンポン山はお城からみて北東、鬼門の方角になるそうです。
左の図で見ると右端の「沼田」の外側辺りにポンポン山はあります。図には御城外となっていますが、この辺りも高岡城の城郭予定地であったと言われており、城郭の端っこに鬼門の魔よけとしてこの小高い丘を祀ったのでしょう。
木町の浜
熊野町にある先宮熊野神社
ぽんぽん山
古定塚にある熊野社
高岡城 前田利長像
中川熊野神社
利長坊説話を生み出したのは誰なのか。おそらく、この説話が伝わっていたのが中川熊野神社でありますので、熊野の修験者集団が説話造作に絡んでいたのではなかろうか。彼ら熊野修験者たちは、高岡城築城には、大変に深い関りを持っていたようで、先の絵図に見るように熊野社の配置箇所は木町から高岡城までの資材運搬の経路と一致していると言われています。すなわち、
木町(高岡城築城の際に建築資材の搬入港として設けられた町)―先宮熊野神社―入定塚(ポンポン山)―古定塚熊野社―中川熊野神社―高岡城
を結ぶ道程は、そのまま石材・木材・瓦・壁土 など様々な建築資材の輸送路であったわけです。この輸送経路には、明治の中頃まで、お城の石垣用の石材と思われる牛2頭分ほどの大きな石が数個放置されたままになっていたそうです。
当時の修験者たちは今で言う、総合建築会社=ゼネコンの優秀社員のようなもの。物資の調達、輸送路の整備、建築材の大掛かりな輸送、土木工事、治水工事、井戸掘り、建築設計、工具の鋳造などは、修験者たちにとってオテノモノでした。さらに、その宗教的パワーを持って普請の工程の吉凶を占い、そのカリスマ性を持って現場で働く者たちを統率する。おまけに、宗教家ならではの文学性を持って先に述べたような政治的説話をも造作し、布教活動で鍛えた饒舌を持って城の主の広告宣伝活動もするというマルチぶりです。彼等なくして築城工事は成しえないことがお分かりでしょう。たとえ、高山右近が南蛮の建築術を取り入れて如何に立派なプランニングをしようとも、修験者集団の実践力なくしては机上の空論です。そのような、重要な役割を熊野の修験者集団は果たしていたのです。木町から高岡城までの道程に位置する熊野信仰所縁の4つのポイントは、まさに、彼等築城に携わった修験者たちの足跡と言えましょう。
熊野三山の統轄者である熊野別当(くまのべっとう)の子に生まれた武蔵坊弁慶。天下無双の怪力修験者として有名ですね。全国に弁慶にまつわる説話は数多く伝えられています。その中には、長刀を突いて井戸を掘った、一夜にして橋をかけた、寺院を丸ごと背負って動かした、巨石を蹴った・投げた・動かした、巨木を曳いて運んだなど土木建築工事に関連したものが多いです。
右から さすまた 熊手 もじり
また「弁慶の七つ道具」と言い伝えられている、鐵熊手(てつくまで)・大槌・大鋸・鉞(まさかり)・つく棒・さすまた・もじり、などは武器であり狩猟具であり、そして土木建築の道具でしょう。スーパー修験者の弁慶は常時これらを背中にしょって携帯していたというのですから、当時の修験者たちの職掌は明確です。
築城工事の現場では、山伏修験者たちの吹くほら貝の音が、高らかに鳴り響いていたのかもしれませんね。
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