日吉社と悪王子
大津市坂本の日吉大社 珍しい形の山王鳥居
六渡寺日枝神社にも同じ形の鳥居がある。
 滋賀県大津市の坂本にある日吉大社に行って参りました。坂本は、比叡山延暦寺にいたる琵琶湖側の入り口に位置し、日吉大社の門前町としてまた、琵琶湖を舞台とする水上交易の町として栄えました。明智光秀が開いた町としても有名ですね。苔むした穴太衆の石積みが町のいたるところに残る静かで風情あるところです。坂本の町の高台から見た琵琶湖のロケーションが美しかったですよ。 
 さて、日吉大社の立派な石橋を渡り坂道を登って行くと変わった形の鳥居があります。この鳥居は、山王鳥居と呼ばれる日吉社に独特のもの。
 富山県では六渡寺日枝神社に同じ形の石鳥居があります。六渡寺では、「おらっちゃの村独特の鳥居で日本にひとつだけのもの。」と信じておられる方も多いのですが、実は坂本の山王鳥居が本店、六渡寺の日枝神社の鳥居は支店と言うわけです。
 六渡寺は小矢部川の河口に位置し、源平盛衰記にも登場する歴史の古い湊町です。前田利長が高岡城を築城した際には、隣接する放生津・伏木湊とともに物資運搬の要所として多いに利用されました。伏木・六渡寺・放生津の湊は、高岡築城の際に湊として整備拡充されたことが後に北前船の寄港地として繁栄する大きな契機となっています。
 高岡では、二上山の頂上に日吉社があります。別名「奥の御前」。二上山の麓にある二上射水神社では、毎年4月23日に築山神事という古式ゆかしい祭礼が行われます。築山神事の祭神は日吉社、二上大神、院内社の三社。祭礼の前日の夕刻、頭屋にあたる山森氏(御幣ドン)と神主が二上山頂にある奥の御前の日吉社から御幣に神を迎えることでこの祭礼はスタートします。一夜山森氏宅で日吉=奥の御前の神様をお護りし翌日築山に移します。築山とは境内の三本杉と呼ばれる大杉の前に、社殿に向って築かれる祭壇で、幅四間、奥行三間、上下二段になっており、上段中央に唐破風の簡素な祠が置かれ、その前に日吉、二上大神、院内の三神の御幣が立てられます。屋根の上には斧をかざした天狗が立ち下段には甲冑に身を固めた四天王の藁人形が置かれ、祭壇のまわりは造花で飾られます。この築山神事は、天上から降臨する神を祭壇に迎える古くからの信仰の特色を良く残しているというので県の無形民俗文化財の指定を受けています。
 二上射水神社の起源は誠に古く、古代の自然崇拝に端を発します。二上山そのものを神と崇めていたわけです。射水神社の社伝によれば養老年間(714〜723)、僧行基が二上山麓に建てた養老寺に、二上権現と称して二上神を祀ったのが社殿の始まりであり、当時の領域は二上全山の22万坪余りにも達する広大なものでした。その後、承平(931〜938)、天正(1573〜1592)の二度にわたる兵火で焼失しますが、慶長15年(1610)、加賀藩二代藩主・前田利長により復興されたそうです。
 ところで、二上山に祀られながらこの年に一度の目出度い祭礼に招かれない、疎外感たっぷりのかわいそうな神様がいるのをご存知でしょうか。それは、悪王子という名の神様です。名前からしてまずいですよね。日吉社を「奥の御前」というのに対し、悪王子は別名「前の御前」と言いまして二上山で二番目に高い峰に祀られておいでなのです。神の序列からするとナンバー・ツーであるにも関らず、祭礼には呼んでももらえない。祭礼に招かれないだけではありません。祭礼が終ると築山はただちに解体され片付けられるのですが、解体が少しでも遅れると祭りに呼ばれなかった悪王子が暴れて、その年は凶作になると今も信じられているのです。名前の通りの悪たれ暴れん坊です。
 また、悪王子を主人公とした次のような伝説も残っています。
 「二上山の山頂には『奥の御前(御膳)』とも言われる日吉神社が、また小さな峰の『前の御前(御膳)』には、その名も恐ろしい「悪王子」が祀られている。
二上山から小矢部川を見る
 二上の神は山の神であり、水の神。そして、雨や水を人々に恵み与える農耕の神でもあった。しかし、この神様の機嫌をそこねれば、旱魃や洪水、天変地異が人々を襲う。人々は一生懸命に働き、それと同じくらい一生懸命に二上の神をもてなさなければならなかった。
 つまり一ヶ月に五人もの若い娘を神に、いけにえとして捧げるのがしきたりとなっていた。
小矢部川の下流、六渡寺から放生津へ向かう道沿い村の「まないた橋」と呼ばれる大きな石の橋に、娘をのせた輿を置き去りにすると、どこからともなく高貴な香が辺り一面に漂い始め不思議な音色が聞こえたと思うと、突風が二上山から吹き降ろし娘を輿もろとも巻き上げ連れ去ってしまうのだった。娘と親は為す術もなく嘆き悲しむしかなかった。
悪王子社から六渡寺・放生津方面をみる。河川の注ぎ込む海は富山湾。
 そのころ都には藤原秀郷という一人の武将がいた。別名を俵藤太(たわらのとうた)と言い、平の将門を討ち、琵琶湖の龍を退治したという強い若武者だった。藤太は時の帝に遣わされて遠くこの地にやって来た。二上の神が人々を嘆き悲しませているために「退治せよ」との命を受けていた。
 藤太は娘の着物を借りると身替りとなって輿に乗り込み、まないた橋へと向かった。一陣の風は、輿もろとも藤太を二上山へと運んだ。藤太は、悪王子とにらみあうこと三日三晩。
藤太のすさまじい眼力に負けた悪王子はついに本身を表した。それは二上山を七回り半もするほどの巨大な蛇だったのである。藤太は、ねらいを定めるとハッシ!ハッシ!と得意の弓矢を幾重に撃ち放った。しかし、大蛇はこれをもろともせず襲い掛かり藤太をぐるぐる巻きにして絞め殺そうとする。はげしい戦いは七日七夜も続いた。
 ついに退治された大蛇からは、堰を切ったようにドップンドップンと脈打って血が流れ出し、その真っ赤な血は火よりも熱く煮えたぎり、二上山の木や土を焼き焦がして流れ落ちた。この大蛇の血の流れたあとが今の登山道となった。大蛇の姿をした恐ろしい神は、前の御前の祠に「悪王子」として封じ込められ、これを見張るようにして山頂の奥の御前には俵藤太が祀られているという。」ってことで、 語って候、物語。
 それにしても、三日三晩のガンの飛ばしあいとは、なんともすごい話。ちょっと噴出してしまいました。月に5人も若い娘を取られたのでは、両親だけでなく村の若い男衆だって嘆き悲しみますよ。この俵藤太の大蛇退治伝説は、別バージョンで行基を主人公としたものも伝わっています。主人公が俵藤太であれ行基であれ、この説話の原型は、日本神話のスサノオノ尊「ヤマタノオロチ伝説」にあるのでしょう。
 さて、この悪王子社ですが、坂本の日吉大社の方にも同じ名前の「悪王子社」が祀られておりました。これも、山王鳥居のように、悪王子社にも本店と支店があるのでしょうかねぇ。二上には、「悪王子は、おらっちゃだけの神様だ」と思っている人が多いのではないですか。私など少し悔しい気持ちにもなりました。
坂本日吉大社の悪王子社
 日吉大社の悪王子社の方は、別名「内御子社」といい祭神は、猿田彦神。導き・旅行安全・水害除け・芸能上達の有難い神様だそうです。所かわれば品変わるといいますが、神様の性格まで変わってしまうようです。二上山の悪王子のようなダイナミックな悪態ぶりと月に5人の若い女性を所望するような好色は、坂本の悪王子には見当たりません。大変にお上品な神様のようです。琵琶湖湖畔の穏やかな自然と、日本海側の荒く厳しい自然との違いが神の性格にも反映しているのでしょうか。土地の住人の人柄が反映しているとすると大変なこと。でも、それはないと思います。二上・守山地区の方は皆温厚なお人柄ですから。
 それから、坂本の方に聞きたいのですが、オタクの悪王子さんはお祭りの仲間に入れてもらっているのでしょうか。それとも、仲間はずれですか・・・。
     坂本日吉大社の門前の大きな看板 
日吉大社は京都から見て鬼門にあたるということから「魔が去る」として猿をお祭りしている。
総門の軒下にもかわいい猿を発見!! 分かりますか。
 富山市内の日枝神社は、富山前田家の産土(うぶすな)神として代々の藩主の保護を受け、今も「さんのうさん」の呼び名で市民に親しまれています。日枝神社が富山前田家の産土となった契機は、越中攻めで佐々成政を降参させた利長が、天正13年(1585)に富山城に入城した時に、社地を与え、本殿・拝殿・鳥居等を造営し、祭礼の形式を整えたことにあります。この年は、ちょうど秀吉が関白の座に登りつめた年でもありました。そして、利長が秀吉から、佐々成政の旧領であった越中3郡を与えられ守山城主となったのもこの年のこと。前田家としてもこの時をもって加賀百二十万石の体制を築いたのです。豊臣家筆頭の重臣として秀吉の傘下にあった利長は、豊臣家の日吉信仰の強い影響を受け、自らの領国にも日吉社・日枝社を配し崇拝したのではないでしょうか。それは、豊臣家への忠誠の証でもあったでしょう。
 いつから祀られたのか起源が判然としない二上山山頂の日吉社も、前田利長が守山城主を務めた時代の足跡であると私は考えます。
 坂本日吉大社には、日本最古にして最大と言われる7基の神輿があります。高岡の御車山も同じく7基。神輿と御車山との関連については、また別の機会にお話するとして、今回の歴史めぐり味めぐりはこの辺でお開きと致します。

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