日吉社と猿
 「猿」といえば、豊臣秀吉を思い出される方も多いと思います。
 尾張で生まれたといわれる豊臣秀吉公は、清洲町朝日の出身である母が清洲の日吉神社に詣でた時に日輪が懐中に入る夢を見て授けられ子であるとの誕生にまつわるエピソードがあり、日吉丸の名の由来もそこにあることは有名な話。おまけに素早い身のこなしと彼の顔立ちは、日吉神社の神の使いである猿に似ているというのであだ名が「猿」になったという。
京都東山の新日吉(いまひえ)神社
 こうした秀吉伝説には後世の捏造もあるかと思われますが、豊臣家が日吉社を深く崇拝していたことは事実です。織田信長が比叡山を焼きうちした時には、比叡山の東側にある坂本の総本宮日吉大社も大被害を受けましたが、後に日吉大社の大修築を行い立派な社殿としたのは秀吉です。また、豊臣家の女性たちも日吉社に参拝や寄進をたびたび行っていました。秀吉が病を患った時にも、秀吉と親交のあつかった後陽成天皇が勅使を日吉神社に派遣し病気平癒を願ったそうです。全国の3800社もあり別名「山王さん」の名で親しまれている日枝社・日吉社の中には、豊臣秀吉とのゆかりを伝える社も多いのです。豊臣家の滅亡後その御霊は徳川幕府により破却された豊国神社から、密かに京都東山の阿弥陀ケ峰中腹にある新日吉(いまひえ)神社に移されました。徳川政権の時代、豊臣家の霊は新日吉神社でひっそりと守り続けられました。境内の一角にある「樹下(このもと)社」の樹下は、秀吉の「木下」に通じるものと言われ、豊臣家とこの神社とのつながりを今に伝えています。ちなみに、現在豊臣秀吉を祀る京都東山の豊国神社は明治時代になってから再興させたものです。
守山の猿芸もこのような姿だったのだろうか。
 長谷川等伯の絵から抜け出し、就寝中の利長の髪をつかんだという猿。父利家の遺言を守り豊臣家との関係を維持しようとしながらも、徳川家に傾倒していかねばならなかった、加賀藩2代藩主利長の苦悩を象徴しているような夢です。その猿の腕を切り落としてしまったという利長の行動には、深い暗示があるようです。

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