9.大姫の生涯
 徳川将軍家と前田家との和睦の証として前田光高に嫁いだ大姫は、寛永20年(1643)に本郷上屋敷で犬千代を生みました。ご存知のように、前田家の上屋敷は今の東京大学本郷キャンパスの場所にありました。
 金沢に滞在中だった光高は、昼夜の境なく駕籠を走らせ7日間で江戸に到着し、大姫と犬千代を見舞ったそうです。加賀の殿様が金沢から江戸へ参勤するには、12日間を要するのが通常でした。光高の7日間道中は歴代のなかで先にも後にもない記録です。
 前田家の若君誕生を将軍家光もたいそう喜び、心尽くしの祝儀の品々を届けさせました。ところが、それから3年後の正保2年(1647)に、光高(31歳)が突然亡くなり、大姫は19歳の身で未亡人に。このとき大姫は身籠っており、間もなく次男万菊丸を出産しますが、その男子は夭折してしまいます。その後の大姫は、わずか3歳で藩主の座に着いた綱紀(犬千代)の成長を、ただひたすら祈り続けました。しかし、綱紀が11歳になった年に彼女は亡くなってしまいます。享年28歳。大姫の遺骸は江戸小石川の伝通院に葬られ、金沢小立野の如来寺には位牌を祀り菩提寺としました。
 現在残されている、大姫ゆかりの品で最も有名なものといえば、やはり、加賀一宮白山比(しらやまひめ)神社に宝物として伝わる国宝の剣でしょう。大姫愛蔵の品と伝えられるこの剣には、鎌倉時代に京都粟田口で活躍した刀工「吉光」の銘が入っており、
「国宝吉光」
白山比盗_社宝物館
パンフレットより転載
大姫が死去したその翌年の8月11日、前田綱紀によって白山比盗_社に奉納されたことが、塗箱蓋内部の銘文に記されています。

  また、高岡市立中央図書館には大姫逝去の際に、前田利常に宛て送られた悔み状が二通所蔵されています。一通は紀伊の徳川光貞から、もう一通は大姫の弟にあたる水戸光圀から送られたものです。二通の書状は、高岡市二塚の大坪家という旧家に伝えられていました。大坪家は代々が加賀藩の十村(大庄屋)をつとめた由緒ある家柄でした。徳川御三家ゆかりの書状が高岡の旧家に伝わっているとは、驚きですね。このような貴重な書状が大坪家に伝えられていたのは、高岡開町の時代に大坪家の娘が前田利長の側室となって万姫を産んだことから、その後も藩主前田家と交流があったためではないかと言われています。
水戸光圀から送られた大姫(清泰院)逝去についての悔み状
(高岡市立中央図書館所蔵大坪家文書)

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