8.大姫の輿入れ
小松城址に建つ前田利常像
  祖心は加賀前田家の存続にも貢献があったといわれています。三代利常の長男光高と将軍家の息女大姫との縁組みを、はじめに提案したのは彦根二代藩主の井伊直孝で、その仲介をしたのは春日局だといわれていますが、蔭で実行したのは、前田家で育った祖心であるとの説があります。
 大姫が前田家に輿入れするには、次のような経緯がありました。
 利常は二代将軍秀忠の娘珠姫を娶り、徳川の大大名として、加賀百万石の礎を築きました。しかし、元和8年(1623)、徳川家との親和の懸け橋であった珠姫は、24歳の若さで亡くなってしまいました。 
  加賀前田家は次なる策として、寛永3年(1626)に利常の娘亀鶴姫(12歳)を徳川秀忠の養女とし、津山藩主森忠政の長男忠広に嫁がせました。しかしながら、この姫君は病弱であり、養生のため利常の生母寿福院が住む
今の金沢城
江戸下屋敷に下がって過ごすことになりました。姫君の病は重くなる一方。ついに、寛永7年(1630)、姫は亡くなりました。さらに翌年には、前田家が徳川家に差し出した人質として、長年大きな役割を担っていた寿福院も没しました。
 すると将軍家の態度は一変します。寛永8年11月、江戸からの飛脚が金沢城に一通の書状をもたらしました。前田家一門の人物から送られたその書状には、
 昨今、前田家が新参の侍を多く召抱えたこと、大坂の陣で功労のあった家臣たちの禄高を加算したためにその家臣たちが多く侍を召抱えていること、金沢城の堀や石垣を修築したことを将軍様が不信に思っておられます。早々に親子で参勤され疑惑を晴らされるべし
 とありました。「前田親子が、兵隊を集め、城を強化して、謀反を企てている」、そんな噂が江戸城に蔓延していたのです。この緊急事態を知らせた「前田家一門の人物」とは、あるいは、祖心だったのかも知れません。
 当時は、旧豊臣方の大名が些細なことで減封や改易の憂き目にあわされていた時代でした。書状を受け取った利常・光高親子は、すぐさま江戸城におもむき釈明を行い、その後も横山玄康ら加賀藩士たち が重ねて釈明し、何とか事なきを得ました。これを「寛永の危機」と言い習わしています。
 翌9年、徳川家と前田家とに新たな婚約が結ばれました。水戸藩祖徳川頼房の息女阿智子姫(6歳)を、将軍家光の養女にして大姫(将軍の長女の意)と称し、光高(17歳)の室に迎えることが決まったのです。大姫は春日局の手によって大奥で大切に養育されていました。
 寛永10年12月15日、光高と大姫の婚礼の儀は、儒学者林羅山の総合プロデュースで執り行われ、大姫のお供役には、松平伊豆守信綱、酒井讃岐守忠勝、阿部対馬守重次、酒井雅楽守忠清ら江戸城の老中たちが付き、春日局も婚礼行列の御輿の四番目に乗って同行しました。前日のうちから、葵のご紋が付された梨子地蒔絵や黒塗り蒔絵の長持が580棹も、続々と前田家の江戸屋敷に運びこまれたといいますから、養女とはいえ将軍の長女の婚礼となると、さすがに格式が違っていたわけです。
 3日間にもおよぶ婚礼が滞りなく終わると、利常は辰口の上屋敷の玄関に飛び出し、「あー、めでたい、めでたい、皆のもの三国一を歌うのじゃ!」と4、50人の御家来衆に「三国一」を大合唱させたそうです。その後もまた、辰口の辻で「三国一を歌うのじゃ」と大合唱。その大声は江戸城の将軍家光の耳にも届いたとか。「寛永の危機」以来の過酷な緊張が一気に解け、歓喜に爆発した利常の様子が伺える逸話です。御家来衆も余程うれしかったのでしょうね。この夜、利常の屋敷では祝いの宴が催されたそうです。その宴には、祖心の姿もあったのではないでしょうか?
 ところで、加賀藩士有沢武貞が著した『残嚢拾玉集』(加賀藩史料)には、大姫誕生にまつわる次のような秘話が。
 水戸頼房公の家臣で牧野與三右衛門という侍が江戸で慎ましい長屋住まいをしていた。彼には出産間もない妻があって、肥立ちもよく息災に暮していた。ある晩、東の空がそろそろ白み始めた時のことである。與三右衛門の長屋の路地口で「おい、與三右衛門、與三右衛門」と呼ぶ声がする。声の主はなんと藩主水戸公であった。與三右衛門が驚いて露地に出ると、そのまま、とある御亭に連れていかれた。そこには、十七、八の美しい奥女中が今まさに産気づいていた。女中は一昼夜の難産の末、女児を産んでそのまま息絶えた。水戸公は「とにかくお前たち夫婦に頼む」と與三右衛門に子を預けた。子は與三右衛門の妻の乳を飲んで成長した。実はこの女児、家光公のご落胤であったが、天下にそれを知る人はない。これが後に加賀に嫁がれた大姫様である。牧野與三右衛門のせがれ、與左衛門は綱紀公の代に300石で前田家に召抱えられた。これは私の父永貞などもよく話していたことである

  なんと、大姫は将軍家光の実子? ふ〜む、これもまた、「大奥の秘密」?

 珠姫、亀鶴姫、寿福院が次々と亡くなり、寛永の危機に震撼した加賀前田家でしたが、大姫入輿の運びとなり、これにて一件落着と相成ったというわけですね。ちなみに大姫の弟君にあたるのが、天下の副将軍水戸光圀公、黄門様ですって。
 大姫のお輿入れから10年後の寛永20年(1643)11月、光高と大姫の長男が誕生しました。犬千代と名付けられたこの若君が、後に「天下の名君」と謳われた五代加賀藩主前田綱紀(つなのり)です。この年の9月に春日局が死去し、代わって祖心が大奥の総取締役の座に着いたばかりでした。祖心は、このとき56歳になっていました。

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