6.お万の方
江戸城 大手門
江戸城 大手門(櫓門)
大手三の門跡
大手三の門跡
  祖心は江戸で、何処に住んでいたのでしょうか?
 済松寺の寺伝には、祖心は済松寺建立以前、「代官町」に住居していたとあります。代官町とは現在の千代田区北の丸公園のあたり。「代官町通り」という地名が今も残っていますね。江戸時代のはじめ、このあたりは関東総奉行内藤清成の屋敷地でした。それで、代官町(だいかんちょう)と呼ばれるようになったそうです。北の丸にはその後、駿河府中藩主徳川忠長や甲斐甲府藩主徳川綱重などの大名屋敷が置かれ、さらに時代が下ると御三卿の田安家・清水家の屋敷地となりました。春日局が晩年に居住したのも代官町といわれていますので、祖心は、局と極近い場所に住んだか、あるいは局の屋敷の一角に住んでいたのかも知れません。
 話しは少々飛びますが、現在の中央区新川(しんかわ)にある新川大神宮の案内板には次の様にあります。
 新川大神宮は、慶光院周清上人が寛永2年(1625)に徳川二代将軍から江戸代官町に屋敷を賜り邸内に伊勢両宮の遥拝所を設けられたのに始まり、その後明暦3年(1657)江戸の大火で類焼したのでこの年替地を霊岸島に賜り社殿を造営しました。
  霊岸島は江戸開府後に作られた埋立地のひとつで、新川は河村瑞賢によって掘られた水路でした。代官町にあった伊勢両宮の遥拝所が、明暦大火後に霊岸島に移転されたのが、新川大神宮だというわけです。
 それにしても、伊勢慶光院のお屋敷も代官町にあったとは。
 慶光院は伊勢神宮の式年遷宮の無事を祈念して勧請などを行う尼寺でした。ドラマ『大奥』には、「伊勢慶光院の尼君」が登場しました。男色にふけるばかりで女にはまったく関心のなかった将軍家光が、はじめて心動かされたのがこの女性。紫衣の着用を許された高貴で慈悲深い尼僧の役を瀬戸朝香さん演じていましたね。彼女は、寛永16年(1639)、将軍家光に初めて謁見した時に見初められて、 春日局の手によって強制拉致され田安門上階の座敷牢に閉じ込められ、黒髪が伸びると還俗して名をお万と改めて、家光の側室になったというストーリー。
 お万の方は実在の人物で、家光との間に子は成しませんでしたが、春日局や祖心の次世代の大奥を取り仕切った、敏腕女性として有名です。尼君時代の彼女は、代官町にお住まいだったというわけです。出世志望の貴女、散歩するなら代官山より、代官町通り、ご利益あるかも。
 興味深いことに、春日局の父稲葉重通と祖心の父牧村兵部は伊勢慶光院と、とても縁が深かったのです。と申しますのは、このふたりは関白秀吉の命を受け、たびたび慶光院に遣わされていました。戦国の騒乱のため長らく中断されていた伊勢神宮の遷宮が秀吉によって124年ぶりに再興されたときにも、重通と兵部が秀吉の使者をつとめました。これを前後してふたりの名を連署した朱印状や書状が十数状も残されています。(『三重県史』資料編近世1)春日局と祖心は慶光院と、親の代からの旧縁を持っていたのです。重通と兵部は、伊勢神宮に近い田丸城・岩出城に居城していたのですから当然ですね。 何も、ドラマ『大奥』のように覆面をした侍たちを引き連れ、チャンバラで強制拉致をしなくても、慶光院の美貌の尼君は、はじめから春日局と祖心の掌中にあったというわけです。
本丸高石垣 大手門(高麗門)
加賀藩が築いた江戸城本丸 天主台跡 天主台から大奥跡を見る
家光時代の江戸城本丸想像図
『新版 名城を歩く9江戸城』(鰍oHP研究所)に 白文字を追加
 

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