2.祖心の転機
  浪人となった夫町野幸和(まちのゆきかず)に連れ添って、江戸に上った祖心(そしん)。それは、寛永5年(1628)のこと。彼女は41歳でした。傷心の祖心に追い討ちをかけるように、寛永7年には前夫前田直知が亡くなり、そして翌年には義父前田長種と息子直正が相次いで亡くなるという不幸が。
 祖心はいったい、どんな日々を送っていたのでしょうか。驚くべきことに、祖心はその頃、様々な和漢の書物を読みふけり勉学に没頭したそうです。如何なる理由で、無職浪人の妻であった祖心が学問に専念できる環境を得たのかは定かではありませんが、祖心が後に男子にも勝る傑出した才女と世に認められことになる、その教養はこのときの努力によって培われたのです。
 まぁ、人生うまくいかなくなったときは、ヤケ酒、ヤケ食い、自暴破棄っていうのが世間一般でありましょうが、自らのスキルアップのために勉学に没頭するっていうのは、さすが祖心さん、人と違うところです。
町野夫婦といっしょに江戸に出てきた山鹿素行(やまがそこう)は、わずか8歳で四書・五経・七書を読み収め、9歳になった寛永7年には、儒学者林羅山(はやしらざん)の門下生になりました。上京から入門までの二年間、素行は祖心とふたり机を並べて、懸命に学問に励んでいたのかもしれません。
 そんな祖心に救いの手を差し伸べたのは、彼女の親戚筋にあたる春日局でした。江戸城大奥は二代将軍秀忠の正室、お江与の方によって創始されましたが、お江与の方が寛永3年に亡くなると、春日局が大奥の総取締役(筆頭御年寄・御老女)となりました。局は学識豊かで才覚に優れた祖心を大奥に迎え、自らの片腕としました。
江戸城大奥の通用門に通じる平川橋 江戸歴史散歩の会ホームページより


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