16.
枯木猿猴図の行方
最後にもう一度、祖心の足跡をたどってみましょう。
天正16年(1588)に、美濃国で牧村兵部の娘として生まれた祖心は、乳飲み子の頃に父の転地に伴って伊勢国へ。しかし、祖心が6歳のときに父兵部は文禄の役(1595)に出征し戦死します。祖心は前田利長の養女となり、加賀前田家に引き取られました。長じて、加賀藩の重臣前田長種の長男直知に嫁いだ祖心は、夫の転勤に同伴して富山城・高岡城・小松城と移り、その間に直正と直成、ふたりの男児を生みました。
故あって直知と離縁した祖心は、しばらく京都に滞在しました。その後会津の蒲生秀行の家臣町野幸和に再嫁しますが、寛永5年(1628)に蒲生家が改易になり夫幸和が失職したので、仕官先を求めて江戸に出ます。この時、祖心は41歳でした。
祖心は江戸で親戚筋にあたる春日局の伝手を得て、大奥と関係を持つようになります。祖心の協力を得た春日局は、将軍家光の側室を次々と奥入りさせて世継問題を解決し、家光の息女たちと大名家との縁組を取持ち徳川の世の安泰を支えました。また、幕府と朝廷との確執となっていた紫衣事件の解決にも一役を買います。
寛永20年(1643)春日局の死を機に、祖心が大奥の取締役となったとき、彼女は54歳でした。それから13年後の寛文3年(1663)に、祖心は家光から拝領した牛込の土地に、臨済宗寺院済松寺を開きました。以上がこれまでのお話です。
済松寺に水南和尚が入山した後、祖心は隠居して済松寺の境内に草庵を結びました。そして、息子直成を呼び寄せ直成の子犬松を養子とし、断絶していた牧村家を復興させました。こうして晩年に、ささやかな安寧を得た祖心は、「枯木猿猴図」に描かれている、あの平和な光景のように、直成親子と静かな余生を送ったのでしょう。
済松寺開山開基墓所
祖心が亡くなったのは延宝3年(1675)、享年88歳でした。老中久世大和守広之から大奥の女たちに宛てられた書状(済松寺所蔵)が伝えるところによれば、祖心はいつもと変わらぬ様子で合掌したまま、ものにもたれて、眠るようにして亡くなり、その表情には「日ごろの徳あらわれ申し候」とあります。
祖心の人生のうちで、彼女はいつの時点で「枯木猿猴図」を所有するようになったのでしょうか。また、どのようにして江戸の済松寺に納めたのでしょうか。ひとりの女性が流転と激動の人生を送りながら、「枯木猿猴図」のような大作を、我が身のそばに置き続けることができたとは、到底思えません。
そこで、私なりの推測をお話したいと思います。
前田利長が愛蔵した等伯筆「枯木猿猴図」は、利長の死後すぐに祖心に渡されたのではなく、利長の形見として、また家宝として加賀前田家に保管された。そして、「枯木猿猴図」は加賀藩の江戸屋敷に移された。
四代藩主光高は、利長が亡くなった翌年に生まれ利長の生まれ変わりと言われていた。その光高は利長の三十三回忌法要が高岡で営まれて間もなく、突然に世を去った。
「枯木猿猴図」は利長の形見というに加え、光高の形見として奥方の大姫(清泰院)が住まう牛込中屋敷に移された。その大姫の死後、「枯木猿猴図」は同じ牛込に造営された祖心の済松寺に納められた。
あくまでも、想像です。
明暦元年(1655)7月、68歳になった祖心は京都を訪れています。これは、山鹿素行の日記に書かれていることです。あるいは、祖心はこのとき「枯木猿猴図」のうちの片方を妙心寺雑華院に移したのかも知れません。江戸の済松寺に留め置かれた腕切りの猿のほうは、火災で焼失してしまったと枯木猿猴図の裏側の墨書に記されていることは、前回にもお知らせしたとおりです。
妙心寺龍泉庵所蔵 長谷川等伯筆 「枯木猿猴図」
龍泉庵の落慶祝いに、雑華院から贈られたという。
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